HEADZの15周年アニバーサリー


今週末の金・土と、何かとお世話になっているHEADZのイベントが渋谷O-nestであります。詳細は以下ですー。

http://blog.head-phone.in/

【HEADZ 15th Anniversary Special 2 Days】

HEADZがスタートしたのが1995年。
今年15周年を迎えるHEADZがスペシャル・イベントを行います。
現在のHEADZに関連するアーティストがこぞって出演致します。
単なるショーケース的なライヴ・イベントではなく、コラボレーションを基調とした
スペシャル・プログラムとなりますので、お見逃しなく。


日時:2010年5月28日(金)/29日(土)
会場:渋谷O-nest(Tel: 03-3462-4420 / http://www.shibuya-o.com/


開場:
(28日) 18:30 / 開演:19:00
(29日) 17:30 / 開演:18:00


料金:
\ 2,500 + 1 Drink order(当日券のみ)
※28日入場者のみ2日間通し券(\ 4,000 ドリンク代別)の販売有り


出演:
【5/28(金)】
●ANIMA × detune.
●HOSE with Klaus Filip & noid minus 江崎
●蓮沼執太チーム; 新鋪美佳(ほうほう堂)、石塚周太(detune.)、斉藤亮輔(サイチャン)、Jimanica(d.v.d)、福留麻里(ほうほう堂)、三浦康嗣(□□□)、山口崇司(d.v.d
【5/29(土)】
木下美紗都とグッドルッキング・ガイズ(南波一海 & detune.
●空間現代 + SJQ
●伊東篤宏 + HIKO(GAUZE) + 大橋可也&ダンサーズ
サンガツ × minamo
大谷能生 featuring miroque & 鈴木真由美(oscillator)


主催:HEADZ(www.faderbyheadz.com)
問合せ:HEADZ(Tel: 03-3770-5721 / mail@faderbyheadz.com)


 

ハイバイ『ヒッキー・カンクーントルネード』パンフ


5月16日(日)からアトリエヘリコプター他で始まるハイバイの『ヒッキー・カンクーントルネード』のパンフレット編集をお手伝いしました。ハイバイ初のパンフとのこと。なんか、いろんな意味で面白かったです。公演のほうもとても楽しみ。すでに売り切れの回も出ているようですので、ご予約はお早めに。以下、チラシに寄せた文章を転載します。

ハイバイの登場人物たちは、いつもジャガイモみたいに粗野でゴロッとしていて、互いにぶつかったり抱き合ったり、あるいは歌ったりする(しかない)その無様な姿に、ぐっ、わーんと心を揺さぶられる。静かな暗い世界に、急に彼らの愛らしいざわめきが浸透してくるというか。そして『ヒッキー・カンクーントルネード』では、その泥だらけのジャガイモの塊が、今まさに他者に向かって飛び込んでいく、プリミティブ(原初的)な瞬間が描かれる。果たしてその前のめりな想いが成功するのかどうか、その答えについてはまあ、いいとして。今もう一度観たいのは、あの繊細なのに不器用な彼らの「美しみっともない」姿であって、そこにこそ、この世界を生きる愛と勇気を感じずにはいられない。そうだ、思い出した。この作品を観て、ハイバイのことがとても好きになったのだった。


公演詳細はこちら。
http://hi-bye.net/category/news/nextplay

三浦大輔作・演出『裏切りの街』パンフ


パルコ劇場で公演中の三浦大輔作・演出『裏切りの街』の、パンフレットのお手伝いをしました。三浦大輔×橋口亮輔三浦大輔×リリー・フランキーの両対談の取材・構成を担当しています。劇場にお立ち寄りの際にはパンフレットのほうもぜひお買い求めくだされば幸いです。とても面白い仕上がりですので。公演は、パルコで5月30日まで。そのあと大阪、福岡もあります。


三浦大輔橋口亮輔リリー・フランキー。この三者にもしも共通するものを見いだすとすれば、それはある種の諦観にも似た感覚なのかもしれません。その表出(表現)の仕方は三者三様ですが、一歩引いた感覚、があるとでもいうか。その感覚に見つめられることは怖いことですが、同時にとても、ユーモラスな体験でもあるのです。

ジュンク堂新宿店のフェアのこと


ジュンク堂書店新宿店で開催中の「あえて〈孤独〉であるための読書」フェアですが、好評につき5月半ばまで延長してくださるとのことです。若い女性の姿が目立つとのことですが、いったいどうしたことでしょうか。なんにしてもありがたいことです。

ツイッターを「辞めた」のか?


気にしてくださっている方もいるようなので書きますが、まず、特に大きな事件があったわけではないです。むしろどうしてこんなに事件が起こらないのか、と訝しんでいるくらいの日常です。しかし毎日なにかしら楽しいことを自分なりに発見しては喜んでいます。ありがたいことです。


で、昨日「エクス・ポ」の企画で野村くんと話してて、「ツイッターを辞めた」というのは嘘だと気づいた。ゼロになったわけではないです。プルサーマル・フジコのアカウントはあるし(コミュニケーションはできずにただ呟く機械のようなアカウントだけども)、そこを経由して情報は摂取しています。ただ、タイムラインで自動的に向こうから情報が流れてくる、という便利だが受動的な情報収集の仕方ではなく、「むしろ貪欲に、こちら側から情報を盗みにいく」という積極的な姿勢を自分に課したい、という感触はありました。ぼくは編集者であり、ある意味では情報屋であるので、情報に対して真摯に向き合うことが求められます。情報に疲れたり振り回されたりしている場合ではなく、それを上手に扱い、濾過し、何かを生み出さなくてはなりません。つまり誤解のないようにあらためてエクスキューズすると、「ぼくはツイッター否定派、のようなものではないし、むしろそれを積極的に活用するために自分のアカウントを手放した」ということになります。


「辞める宣言」のようなものはパフォーマンスではないか、というご指摘については全く仰る通りで反省する面もないではないですが、宣言するくらい追い込まないと意味がないと思ったのも事実です。ひっそり呟かなくなる、という生きているか死んでいるかわからない状態、というものはむしろ避けたい。これはいわゆる「ツイッター疲れ」のようなダラッとしたものではないからです。むしろ積極的にいかにネットというものを活用していくか、いかにこの時代を生きていくかという宣言なのですから。


最近、ツイッターをやっていない、あるいは距離をとっている、という人と話をする機会が多くて、その人たちの観てる世界のほうが気になるようになった、という理由もあります。ツイッターをアクティブに起動させている状態、というのは常にその呟き空間に対して脳や手が繋がっているという感覚がわりかしあろうかと思うのですが、そこのコネクトを一度あえて切断する必要が”自分には”ある、と感じたまでのことです。別にそれを現代社会の病理であるとかどうとか言うつもりはありません。単に人間が変わっていく、ということでしょう。ただ自分がその中でどう生きるかは問われます。


自分はプルサーマル・フジコという人造人間のようなものを作ってしまって、ここにもっと魂を込めていかなければというか、燃料をいろいろ投下しないといけないので、他人とのコミュニケーションに割く時間を極小に減らして、より様々な資源(リソース)に触れたい、という気持ちもあります。フォローしている/されている数が数百人という状況は、自分としてはあまりに適切に世界が投影されてしまうというか、いや、そうではない世界はもっと広い(あるいは狭い)ということを頭ではわかっているけれども感覚的・身体的にたいへん誤解や思い違いを生みやすい状況であるということも薄々感じていました。この状態でコミュニケーションを多方面に向けて繰り広げるよりも、自分は何がしたいのか、どこに向けて言葉を届けたいかということを、プルサーマル・フジコという人造人間の存在、およびそれが書いたもの(例えば「ふつうの女の子」というミニコミに寄稿した文章や、今日配信されるであろうワンダーランドに書いた鳥公園の劇評)を通して顕わにされてしまったので、ここで思い切ってそちら(……)に舵を取ってみよう、と思った次第です。


ではそちら(……)というのがどっちなのか? ここでは書きませんが(書けませんが。つまり説明できるものではないですが)、プルサーマル・フジコが書くものを通してそれは明らかになっていくだろうと思っています。


 


 

追記


↓と書くと、それしか理由がないようにやはり読まれるだろう、という絶望がまた襲ってくるので、それで数日書かなかったんですけど、まあもう仕方ないかという気持ちです。いっこだけ言うと、パフォーマンス、ということでいうと、もう何もかもがパフォーマンスな訳で、つぶやくというのは、ブログを書くということもそうですが、同時に「誰かに見せている」ということを、もうデフォルトでやっているわけですよ。それがもう当たり前のことになっている。進んで「見せる」ことが奨励される。で、はっきりいってその中で「辞めました」的なことって、パフォーマンスとしては全然不利というか、まったく得なことないです。効果なんてないよ。でもあえてやったわけ。もうパフォーマンスを微温的に緩やかに続けてる、ってことからの離脱(の意志を示すこと)なんですよ。そこは理解してほしい。というか、やってみてわかったけど、これはただの自傷です。いちじるしく傷つくのです。自分を形成していたある部分をごそっと削り取ったわけだから。痛いんですよ。傷むんですよ。そして、岩井さんが言うみたいに、自傷した人間はそっから低い声出して唸るんです。今はたぶんそういう状況です。でもなんで自傷するかっていったら、俺は書いたものをちゃんと読んでほしいんです。もう呟きでコミュニケーションとかはとりあえずいいから、それはそれでいいけど、真剣に時間かけて書いたものを真剣に時間かけて読んでほしいと思ったんです。なんかもう、情報の波と一緒に流されていく、新しいとか新しくないとか言われる、適当な流行のコンテクストの中でしか消費されない、消費すらされない、そして自分もその片棒を担ぐ、みたいなことがもうほんとうにイヤなんです。だから自傷してんだよ。要らん傷を負ってるわけ。すごい今どろどろに血が流れてますよたぶんこれ。血と汗と涙でボロボロになって、でも全部の責任は結局自分にあるわけだから、どうしようもなくてそれが外に流れないで詰まってるんですよ。それで腹の中で黒いモノがごごごごごごと渦巻いちゃうのですよ。でも、もうパフォーマンスとやらに関するその解釈とかはどうでもいいから、とにかく読んでほしい。書いたものを。それでとやかく言ってほしい。そこで初めて自分の考えるコミュニケーションは成立する。一般論なんて糞尿以下だ。それだけです。どんなことしたって、パフォーマンス的磁場から離脱できるかっていったら、そりゃそれは嘘ですよ。無理に極まってる。ゼロにはならないよ絶対。そんなことはわかってる。もう何もかもわかってるんですよ。……まあでも、これもまた新たな誤解の火種になるだけでしょう。というわけで自分は、この名前ではもう何も書きたくないんです。生きることは混沌です。


 

プルサーマル・フジコのこと


なんだかとても忙しくて、春なのか、まだ春でないのか、あるいは春が通り過ぎてしまったのか、よくわからないままに日々の天候を受け入れています。リズムを保つために、できるだけ太陽と共に目覚め、夜が来れば寝るようにとは思っていますが、締め切りの都合でままならないこともあります。最近はマッコリがお気に入り。そして週に1度か2度は近所のベトナム料理のランチを食べます。今日はそのお店の陽気なおじさん(たぶんベトナム出身)に「いつもありがとね〜」と声をかけられました。


さて忙しい中で、しかし「あれあれ?」と思うこともないではなくて、とはいえこの違和感を今はうまく口にすることができないというか、面倒なので書きませんが、なんだかもの凄く醒めた自分というのがいて、それが浮ついた状況を眺めているということはあります。嘲笑でさえも絡め取られる世の中です。それもまた罠なのです。少し前にも書きましたが、本当に東京が腐っているな、と感じているのはたしかで、その一方で自分は東京でのうのうと暮らしてもいるわけです。それは別に人格が乖離しているというのでもなく、もっとささやかに、さらさらと分裂しているというか、感覚が茫漠と偏在しているという状態に近くて、それでいて奇妙に統合がとれてもいる。大変落ち着いているわけです。そして自分は、今いる小さな町にしばらく腰を下ろすことにしました。特に凄い決意があるわけでもないのですが、ああ、そういうことなんだな、というこの感覚は初めてのことで、取り立てて精神が昂揚しているわけでもないローテンションなので、自分としては信頼できる感じがします。


ここでしばらくは仕事に専念したいと思っています。まあ継続的に仕事のある保証はまったくないですし、別に今もまったく恵まれている状況などありませんが、どうも自分は不平不満を口にしたり、誰かを貶めてのしあがってやろう的なマインドがないようなので(時に攻撃的ではありますが)、精一杯やるだけです。そのため、ミニコミ誌などから「なんかへんなもの書いてよ」的な依頼があったりすることもあるのですが、それは他に任せて、自分は編集業に集中することにしました。編集の仕事と書き仕事というのは、かなり近いところにありますし、相互に高め合う部分もあると思うのですが、やっぱり立場が別で、特に書く内容によってはまったく抵触するので、できるだけこれからは書き仕事はそっちのほうに回したいと思っています。といってもいわゆる広告主のいる商業誌に載せられるようなものを書くことは現時点では考えられないので、かなり変則的な活動になるとは思いますけど。


その書き手はプルサーマル・フジコといって、まあ自分にとっては心の友みたいというか秘密兵器的なところがあって、いつか満を持して世に送り出してやろうという考えもありました。しかし例の「あれあれ?」という違和感のせいだったり、ともかく仕事が忙しいという状況もあって、まだ準備不足といえますがこの段階でリリースすることにします。なんか、『天空の城ラピュタ』に出て来た、孵化しきってない巨神兵がドロドロ溶けちゃった、みたいなことにならなければよいですけど、まあ世界の端っこのほうで細々とゲリラ活動を繰り広げてハナから無理な革命を目指す、というだけのことですから別に大丈夫でしょう。どうせ負け戦なのですから。


というわけでそちらもよろしくお願いします。ツイッターとブログは以下です。直接連絡をとりたい場合は僕のほうにどうぞ。窓口になってますので。
https://twitter.com/pulfujiko
http://pulfujiko.exblog.jp/


とりあえずは下北沢の喫茶店イーハトーボで刊行されている「HE+ME=2」の8号に短編を書いてますが、近々出るらしい「ふつうの女の子」というミニコミにも少し長めの短編が載る予定だそうです。自分は両方とも読みましたが、まあ別に、これらが世の中で凄い話題になるという可能性は残念ながら無いと思います。例えばそこには新しい目を見張るようなアイデアとか、誰かエラい人を唸らせるような見事な構造といったものがないからです。いっぽうポピュラーな(どこかのクラスタにウケる)要素も皆無に近い。じゃあなんなのだ、ということですが、おそらくもの凄い悲観主義者というかニヒリストとして絶望的に世の中を観察しながら、露悪的な悪態をついたりルサンチマンの塊になることもなく、ただ嘘のない言葉をアクロバティックな試みと共に書ける書き手というのは、今の時代そんなには多くない気がしています。(いや、居たらぜひ教えてほしいのですけど、おそらく自分が知らないだけなので。)嘘がないといっても、フィクションなので嘘といえば嘘なのですが、まあこの腐った時代の狂騒に流されないというか、時代の変化にオロオロしているだけのオトナたちに騙されないことは大事だと思うのです、僭越ながら。周囲に惑わされず、自分でものを考えていかなくてはいけない。ところが、「わたし」というものをどこかに置き忘れてきたのか、いまひとつその在り処がよくわからない……。


思うにプルサーマル・フジコは、未完成な部分もあるとはいえ、ある種の風船的なふわふわした要素と、可動式のイカリ(錨=怒り?)を併せ持った書き手だと思いますので、ごく少数であれ誰かから必要とされることはあるかもしれません。まあそうあってほしいし、誰かひとりの読者に届けばいいと思います。それは何かのスイッチが入ってしまった熱狂的な信者とかではなくて、いわゆる文学ファンのような人でもなくて、ただごくふつうに、本当にごくふつうに生きていたいというだけの人です。自分は売れる売れないとか評価されるされないとかよりそっちのほうに賭け続けて生きてきたつもりなので、今回満を持して(ということでもなくて実際は成り行きなんですけど)プルサーマル・フジコに出動を依頼した、というわけです。それは自分にとっては、少し寂しいことでもあります。できれば世の中に晒さないで、ただ心の友としてあってほしかった、という気もするのです。願わくば、お茶目な部分が愛されますように。ともあれ、どうぞよろしく。