桃まつりメモ


ユーロスペースの「桃まつりpresents真夜中の宴」。「弐の宴」も観ました。収穫あり。あえてクリシェ(とくに台詞)をやることでそこからズラそうという手法が散見されて、それ自体はあんまり好みではないのですが、そのズラしかたが監督によって違うのが面白いなーと。あと某作品はまったく未知の文法で作られていたりして面白かったです。(たぶん私が知らないだけで、先行する何かに通じる、ある種の系譜はあったりするんでしょうけど)

女の武器について

さて以下、文章を推敲したりする余裕はないので*1ほとんど独り言のようにしてまたキーに任せて書きますが、ここまで観た感じでは、「新鋭女性作家たち」の作品であることが宣伝文句のウリであるにも関わらず、あんまりそういう感じがしません。無料配布されるパンフレットの中で、映画プロデューサーの越川道夫さん(BRAINZの講師でもある)が書いていた文章には、彼女たちは「過去」ないし「欠落」を抱えるところから映画を語り始めている、とあり、それはその通りだと思いますが、それだって必ずしも「女」にかぎるものではないし、もしかしたら、現在において映画を撮ろうとすると「過去」や「欠落」によってなんらかの「根拠」を設定する身振りは避けがたいことなのかもしれないな、とか思ったりもします。とにかく、「女である」ということをあからさまな武器にして映画を撮っているような人は今まで観たところでは一人もいなかった、と思います。それは良いことなんだろうな、と思いつつ、どこかで物足りなさを感じたりもする。


と、これはもしかしたら一考に値するテーマなのかもしれなくて、たとえば小説では、川上未映子はあからさまに女であること、それも美女であることをウリにしていて、しかも、もはやそれが単なる営業面でのプロモーション活動である、というふうに切り離して語ることができないくらい、すでに川上未映子という存在はそのような美女性を孕んでしまっていて、かつ、毎月の生理を迎えて妊娠と出産をしうる女という存在が強く意識されている時、もはや彼女の文章を読む段においてはその美女性と切り離して読むことは不可能である。


これはたぶん、一人称をめぐる問題でもあって、桃まつりの映画は女性を主人公にしたものさえ少ない。女性が主人公の場合でも単独者ではなく、必ず同等の扱いの共演者(男性)がいる。その意味では最初から他者性を取り込もうとする計略が桃まつりの映画には見える。それは映画というものが、必然的にひとりではつくれない、そしてカメラにはさまざまなノイズ的なものが飛び込んできてしまうという、そもそも他者性を持ったジャンルであるという問題にも一脈通じるであろう。ただ! そのようにして他者性に対する目配せを意識してしまうあまりに、攻撃性(周囲の世界と対峙する強さ)が弱まり、やや周囲の空気を読んでしまっているという傾向が感じられなくもなくて、そこが物足りないと思うゆえんかもしれない*2。それに、複数の人がいれば他者性が担保されている、ということでもないだろうし、逆にたとえ一人称であったって、そこに他者が現れるということは当然あるはずなのだ。


と、「物足りない」を繰り返すと単に物足りないのかと思われそうですが、そんなことはなくて、いくつかの作品できらりと光るもの、とげとげしいものを発見し、ああこの人の動向は今後要チェックだな、とか思ったりしてます。あと人脈的に言えば、冨永昌敬監督のプレゼンスが大きいんだなーとか(そしてそれはかなり良い影響を及ぼしているように思う)。でもこの「真夜中の宴」全体として見ると、「新鋭女性監督が!」という惹句も付けられているので、こういうふうに、映画とは、とか小説とは、みたいな大枠でついつい考えてしまうってことでお許しいただきたい。

青年よママのもとへ帰れ

ほんとはこの文章を書き始めたときに言いたかったことは、隣の席にいた青年がくすくす笑いをしていて、それがムカついたのでそれについて書こうと思っていました。なぜかというと、その青年は単に自分の友達だか知り合いだかの役者が出ていたから笑っていたのであって、それ以外の何ものでもないのですが、笑いというのは笑う側のセンスが問われる問題でもあって、映画館にいって、知り合いが出ていて演技しているから笑う、というのはセンスとしては下の下、品位を疑うような卑しい行為というかあまりにレベルが低い話であって、そういうことは君のガッコの学芸会とかサークル内の発表会とかでやっていただきたい。もっと笑うべきところがいくらでもあるのにその青年(ガキ)はそういうところではくすりとも笑わないのだが、映画館に来たら映画を観ようよ君。友達を見たいんだったらいつまでもお友達とつるんでればいいじゃん。まあどうせそういう極私的領域の親密性に頼ることでしか映画を観ない観られないって人は今は学生だかなんだかで時間があるでしょうがあと3年もしたらどうせ映画館にも行かないだろうし、過剰に「社会人」化することが目に見えているし、せいぜい「昔よく映画観てたんだよー」とか「あ、この監督大学の時の友達でさー」とか彼女に自慢しながらDVDを鑑賞するというのが関の山だと思われるので、まあいいんですけど、しかしこれは演劇についても言えることで、私が演劇から距離をとっていたのはそういう輩がウジャウジャいるのがなんとも我慢ならないからで、その点、桃まつりのこの「真夜中の宴」はどうしても映画学校系の知り合いとかが来ているし友人知人やバイト仲間にも動員かけてるっぽいからその点では演劇にかぎりなく近くて、やっぱりいたか、そうした連中が! という感じなんですけど、ほんと、もうそういう人たちって目障り耳障りなので、できれば目につくあたりにはいていただきたくないと思います。てゆうか、目の前にある映画に対してあまりにも失礼ではないですか。


あともう一個だけ追記すると、私は最近シネフィルと呼ばれる人たちを見直していて、いや見直していて、なんて言えるほどエラくもなんともなくて端的にいって蒙を啓かれるような思いなんですけど、なぜならば彼らがとても孤独に映画を観ているそのスタイルが素敵だと思うからです。少なくとも映画に対する愛なり敬意なりはちゃんと持ってる人たちだと思う。偏愛的ではあるかもしれないけれど。

*1:仕事のほうにそうしたエネルギーを注ぐと自分の書いたものに関しては投げっぱなしたくなるみたい。

*2:それは単に私が、独善的で攻撃的な作品が好みである、ということかもしれませんけど。例えば川上未映子の好きなところは、それがまるでカミュの『異邦人』を想起させるような部分なのですよ、私にとっては。