「思想地図」シンポジウムメモ 宮台真司×東浩紀


6月16日「思想地図」シンポジウム「公共性とエリート主義」@紀伊国屋サザンシアター。パネリストは東浩紀北田暁大姜尚中宮台真司鈴木謙介。一目瞭然の豪華なメンバーだけど、正直、豪華であるからこそ、適度なところで「しゃんしゃん」になるんじゃないの? と予想しておりました。でも全然そんなことなかったです。きわめてスリリングでした。


宮台さんが繰り返し言及していた「トータリテート(全体性)」の概念は非常に込み入っているので簡単に批判できるものではない、ということは感じました。しかし少なくとも東さんとcharlieの宮台さんに対する批判は、その複雑さを理解した上でなされていたと思います。で、あくまで私の理解のかぎりにおいて(どう考えても理解不足なので、以下に述べることをもって各氏の議論がこうであったと断定してほしくはないのですが)、宮台真司東浩紀のあいだで交わされた議論について、まとめておきたいと思います。彼らの持っている知識量と頭の回転の早さにはとてもついていけるものではないし、本来は、さまざまな固有名詞も削ぎ落とすことはできないでしょうが、まあそれはいつかこの座談会もまとまって活字になるだろうし、そっちを待つということで、あくまでこのエントリーは、私自身の整理の必要に応じた、私の理解、であることをことわっておきます。まわりくどさを排除するために一部断言調を使ったりしていますが、ご了承ください。また今後、(あくまで整理のためにですが)部分的に改稿、改変することもありえます。なおここでは姜尚中さんと北田暁大の議論については触れていませんが、両者の議論にもほんとうは興味深い点がいくつもありました。ちなみに後半は、charlieこと鈴木謙介に関する話です。




さて、いわゆる宮台さんの「転向」の肝は、90年代までは有効だった戦略、すなわち「痛み」およびそれを感じている人々を代弁する(政治的に表象する)という戦略から、それではフォローしきれないものがあるために、卓越主義的リベラリズムアジア主義を援用する形での、全体主義的な理性的設計主義(by東)の方向へ向かった、という点にある。そしてグローバル・エリートたちに対抗するためにも、ひとまず領域国家型主権がまだ機能しているのだから、それを使って「社会の分厚さを保つ」戦略が必要なのだ。そしてcharlieがよく用いる「ライ麦畑でつかまえて」理論によれば、子供たちが遊ぶための広場を守る「キャッチャー」が必要である。ここで宮台さんが「キャッチャー」として想定するのは、教養(ビルドゥングス・ロマン)を備えた、官僚的なエリートである。この議論を土台にした上で想定されるキャッチャーというのは、全人格的にそのようなキャッチャーたる人物にふさわしい資質を備えている必要がある……。


しかしそれに対して、東さんが非常に興味深い反論を投げかけました。まず(領域国家型主権に対置される)帝国型の主権も、単なるグローバル・エリートではなくて、「もっと不気味なもの」である。それは、領域型、すなわちある種の全体性を担保するために友か敵かを選別するような政治力学に対して、友と敵といった境界をつくらないままに動く側面がある。そして、すでに領域国家型主権のみならず、そのようなグローバルな主権によっても浸食されている私たちの社会は、「社会全体を変えるようなシステム」を構想することがもはや不可能である。身の回りの小さな場所を変えることはできるけれども、社会全体は不可能なのだ。である以上、政治というアリーナに興味を持たなくてはコミットメントできないようなシステムではなく、市民の中に分裂して断片的に存在している知識を集められるようなシステムが構想できないか。例えば、オタクはある特殊な知識のみ発達しているが、全人格的にいってキャッチャーにふさわしい存在であるとは言いがたい。けれどもその知識を有効に利用することがあっていい。……このような東さんの議論から構想されるエリート像は、宮台さんが暗黙に想定しているようなビルドゥングス・ロマンを備えた知的エリートではなくて、「パートタイム・エリート」、すなわち、ある期間、ある能力のみに限定してエリートであるというような像である。(ただし、特定の知識に専門特化した官僚というイメージではないようです。)


さらに、90年代のように「痛み」から世界を把握することが有効ではないと述べる宮台さんに対しても、東さんは反論します。いや、むしろ今現在の「痛み」はパートタイムな「痛み」であって、それを理解しなくてはいけないのではないか。つまり、車を持っていて、給料もそこそこあって、じゃあそれでいいじゃないか、というふうにトータルで判断しているようでは現在の「痛み」は発見できない。超貧乏で生存ぎりぎりといった完璧に不幸な状態は日本ではそうそう発見できるものではないが、しかしながら断片化されたアイデンティティに対応するようなパートタイムな「痛み」がモザイク状に存在している。にもかかわらず全人性、全体性といったものに固執するかぎり、そのような「痛み」を救済する(という言葉は東さんは使ってないけど)ことは不可能である。だから全人性、全体性といった理念をある程度打ち捨てる必要があるのではないか。




おおむね、以上のような対立があったと理解しましたが、ただ私が思うには、今のところ、宮台さんのような議論も、ある程度有効であり、必要なのでしょう。というのは、少なくともまだ自民党なり民主党なりが存在していて、そこで政策決定がなされていく以上、ロビー活動も含めて、そのような政治をコントロールすることは有効であり必要である。誰かがやる必要がある、という意味において。ただ、そうした永田町的な政治機構が「日本」という全体性を包括することはもはや不可能になっているという議論も説得力があって、どうやって「社会の分厚さを保つ」かといった時に、現在考えられるような「国家」の介入が完全に有効に機能するわけではない。そこに(昨夜の)宮台さんの議論には限界がある、ということだと思います。ただこの場では、東さんもパートタイム・コミットメント、パートタイム・マルチチュードといったあり方をどのように具体的なシステムとして構築するのか、という具体的な戦略の話にまではいたらなかったので、今後の東さんの動きに注目したいです。(個人的には、郵便的、動物化といった東さんの議論に関して、ずいぶんと認識が変わりました。)



NEWS23文化系トークラジオLife


で、それはまた、私たち(語り手たち)がどこに立つのか、という問題でもあるように思うのです。たとえば宮台さんは、政治家や官僚といった人たちに近いところにいて、だから宮台さんの考える戦略というものも、彼らに向けたり、また彼らの予備軍に向けて語られるということがある。でもそれからすると、東さんやcharlieは、もっとずっと下のほうというか、地べたのほうに立っているのだというふうに、少なくともこの夜のシンポジウムからは感じました。(大衆心理からして当然後者を応援してしまうので、その意味では宮台さんは嫌われ役を買って出ているわけですが。)


それでいうとcharlieが、「宮台さんの議論では元気になれない」というような発言をしていましたが、それはやっぱり立ち位置としてかなり地べたのあたりにいる人たちにとっては、宮台さんの話を聞いてもさっぱり元気になれないということでしょう。いや、実際ぼくもまったく元気になれないっす。で、「みんなに元気を与えることが必要だ」「じゃあウソをついてもいいのか」「いや、そういうことではない」といったやりとりがcharlieと宮台さんのあいだで交わされましたが、charlieの考える「元気づけ」は、決してウソをついてまで希望を語る、ようなあざとい戦略ではなくて、もっと泥臭いかなり本気の愛なのだ、ということを、昨日の深夜に放送された「NEWS23」で感じました。


NEWS23」内のあるコーナーで、秋葉原の事件をめぐって10代後半〜30代前半の若者たちが集められた座談会があり、その座長というか聞き手役をcharlieが務めていたのですが(前だったら筑紫哲也さんがやってた役回りですね)、そこで、ある参加者の発言に対するcharlieの応答が印象的でした。というのは、「社会学者や心理学者といった専門家の人たちは、今回の事件がひどく複雑で難しいということはわかっているだろうが、それをわかった上で、明快な答えを与えてほしい。それによってぼくたちは安心することができるから」という発言で、それに対し、「いや、そうじゃなくね? わかんないことはわかんない、だからみんなで考えていこうぜ、っていうふうにするしかなくね?」みたいな応答をしていて、うわー、charlieだー、と嬉しくもなったのですが(その意見自体には、ぼくはまだじゃっかんの抵抗が残りますが。というのは専門家があえて語る、みたいなことも必要なんじゃないかとどっかで思っちゃってるところがあるわけですが)、しかし、この瞬間は決定的で、この応答をするのはかなり度胸があるというか、ああ、腹を決めたのだなと思ったのでした。というか、charlieはとっくの昔に腹を決めていたのだろうけども、やっぱそのへんが、彼の言葉が「届く」ゆえんなのかなと感じます。ちなみに、ある意味でこの発言は例えばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンの「大審問官」挿話に対する強烈な回答というか……ちょっと歴史的な瞬間でさえあったと私は思います。いや、という回りくどい言い方はかっこつけすぎか。端的に言って感動しました。あ……アホだ、この人、とか思ってしまった。(ごめんなさい、もちろん、すごくいい意味でです。)こういう泥をかぶる人はほんとにいなかった、と思う。マジな話、この人と同時代に生まれてよかったと思った。




で、余談になりますが、そのあとにデカデカとした文字で「この事件についてはTBSラジオ文化系トークラジオLife」でも扱います」みたいなテロップが流れて、ああーLifeもここまで認知されたのか、というかやっぱりギャラクシー賞は大きいのか、長谷川プロデューサー泣いてんじゃないかなとか思ったりしました。初期からLifeという番組をみてきて(聴いてきて)、やっぱりこの番組はリスナーの側を向いてきた、あるいはリスナーに支えられてきたなと思います。リスナーとの距離感には微妙な変化があるとは思いますが、やっぱりさっきの「どこに立つか」話でいうと、リスナーの傍らに立つというか、ラジオというメディアを挟んだ向こう側にいる、という、そこは不変であるような気がします。向こう側、というのは、権力や権威の側、とかではなくて、純粋に、「声が届くメディア」としての機能を持ったラジオという媒体をはさんだ向こう側にいるということです。その番組が、同じTBSというグループであるとはいえ、テレビでも紹介されるところまで来たというのは感慨深いものがあるし、マスメディアが用意した番組というよりは、かなり地べたなところから叩き上げで大きくなってきた。次回の放送(6/22深夜25:30〜)のテーマは秋葉原の事件についてで、そのため雰囲気はシリアスにならざるをえないでしょうが、たぶんここでしかやれないような話があるでしょう。我らがcharlieこと鈴木謙介は、いま確実に愛すべき「キャッチャー」となりつつあるのです。(もうなってるのか)