七夕忌


いや、そうではない。講演の中には明らかに以前には聴いたことのなかった言葉が、事実が、出来事が含まれていた。つまりK先生は、同じことをひたすら考えるその先に、今もなおその思想を更新しつづけているのだった。母校での講演のあいだ、私はなんだか透明な空気のなかに氷づけにされたような気がしていた(笑い話みたいだがクーラーが効きまくっていたせいもある……)。大学を出てからこのかた、狭い範囲とはいえあちこち流浪したせいで、私という人間の正体はなんだかよくわからなくなっている。過剰な部分と、足りない部分とのバランスは未だにとれず、いびつな形にでこぼこし、そのくせ突出したものを何ひとつ持たず、しかも決定的に器が小さい。私は、長い時間をかけて一本の線をゆっくりと伸ばしつづけているK先生の言葉を前にして、どうしていいかわからず、ただ氷づけにされたままじっとしていた。とはいえ様々なものの明暗をそこに見たような気はする。


講演の前に黙祷が捧げられた。それは4年前の七夕に亡くなった、もうひとりの先生に捧げられたものである。その人の思想哲学よりも、ただその存在が大きいということはある。大きな人だった。呵々として笑う姿が似合う人だった。来年岩波から全集も刊行されるらしい。私はその先生の「君、若いうちしか勉強はできないよ」という言葉を裏切って野に出た、というか、たんに学問の道が怖くて逃げたのである。たしかにその言葉はある面では真実だったと痛感する。でもある面では、全然後悔してない自分もいる。どう考えても私は学究生活に耐えられる体質ではないし、飛び出たおかげで、いろいろな人に会って、いろいろなものを見られたとも思う。あれからそれなりの年月が過ぎた。先生にとっては単なるひとりの世間知らずの学生に過ぎなかっただろうが、やはりなんらかの形で学恩に報いなくては、という気持ちは今でもずっと忘れることができない。