ゼロ年代の終わりの始まり


昨日、下北沢のモスで仕事してたら、意外な人とばったり会ったので、今何を考えてるのかとか、これから何をしようとしてるのかとか、話を聞いてみた。(ちなみに二人で話していたら仲俣さんが通りがかった、笑。)それで、ああー、とうとう「ゼロ年代」が終わったんだなと実感する。全然歓迎ですけど。ただし「ゼロ年代」の狂騒はたしかに浮ついたものではあったけれど、重たい空気をだいぶ払拭してくれた面もあるなとは思ってます。あと結構いろんなものの芽は出てきてるんじゃないかな、とか。で、最近こういう話を人としてそっちの脳が刺激されて少々何かたまって気持ちわるいのと、明日からしばらく東京を離れることもあって、少し置き手紙的なメモを残しておきます。


次なる「テン年代」は、ひとまずは「脱・ゼロ年代」として構想することができるでしょう。僕が今予感している「テン年代」の有り様はこんな感じです。いくらかは「こうなったら楽しいなー」という理想も込みですけど、ある程度はすでに進行していることでもあるはずです。

★脱・コミュニケーション過剰(空気読まない、笑。あと適度に引きこもるとかアリな感じ)
★グローバリゼーションの様々な形での進行と、脱・ムラ社会(脱・東京中心主義、地方分権、海外や地方都市との具体的な回路の構築)
★脱・社会学的な記述と作家主義の台頭(「社会構造や集団的自意識」→「状況を撹乱し突破しうる個」への、「代表・表象する者(reperesent)」→「存在・現前する者(present)」への関心の移行)
★多様なリアリティの共存(トライブやら島宇宙やらさえ形成しない個々人にとっての「世界はこう見えている」というリアリティの表出、「成功」モデルや「人生の目的」の多様化etc.)
★「私」の相対化(コミュニケーションの飽和や多様性の進行による、自意識の持ちようの変化)
★小集団やパーティやユニットの、その時々におけるめまぐるしい発生(*ただし、あくまで個々の才能に裏打ちされた上で)
★突出した個々の才能やリアリティが表出してくるがゆえの、のりしろ的・編集的・制作的・二番手的ポジションの価値の再認識(*まあこれは希望ですけど、笑)
★若手アカデミシャンの台頭と、新しい人たちによる教養(歴史・情報・知)の再構成(*ただし旧態依然とした権威的な教養主義に回帰しないための舵取りはある程度必要かもしれない)
★日本型二大政党制(基本は二大政党制だが、キャスティングボードを握った小政党のプレゼンスは残りうる)への進化と、政治が流動的になることでの有権者の関心の高まり(*よくもわるくも近代的な個人主義市民意識の高まりとかではなく、むしろ多様性の進行とパラレルなものだと思います)
★アジアとの関係強化、あるいはもしかしたら日本のアジア化の漸進的な進行
★ポスト・ロハスブームロハス的な生き方がある程度デフォルトになったところでの、ライフスタイルの再認識と再編成)
★労働形態の多様化(*これは景気の行く末に左右されてしまうかも)
★特定の土地への結びつきの強化と、土地に縛られない生き方との共存(どちらか選択するのではなく両方可能)
★デジタルコンテンツ化の進行と、ポストお笑いブームとしてのマスメディア業界へのアート系・ビジネス系・教養系人材の流入(*これはいろんな面でうまく機能しないかも)
★複製芸術のより高速化・ハイスペック化された形での流通と、その一方で、複製不可能なものの価値の高まり(例えばYouTubeと小劇場演劇の併存、メールやスカイプやSNSといったコミュニケーションツールと集会やパーティなど対面コミュニケーションの併用、脱物質化とマテリアリズムの同時進行etc.)(*個人的には、後者はフェティシズムからできるだけ距離をとったほうがいいと思っています)
★脱・自然主義リアリズムを意識したフィクションの台頭(「現実」に対する認識の多様化と無縁ではない。参考としてマジック・リアリズム、ヌーヴォーロマン、カフカ的幻想、ラブレー的荒唐無稽、ドストエフスキー的饒舌、ゴダール的切断、ペロー的ドキュメンタリズムetc.)

以上を強引にまとめると「テン年代=多様性と個の時代」という感じになりますが、まあどう見てもこういうことを僕が考えるにいたったのは、やはり佐々木敦の影響が大きいと言わざるをえません。作家主義うんぬんも先日のABCでのイベントか何かで佐々木さんが発言したものだし、そもそも「エクス・ポ」が作家に近接していくものでもあります。また肝心の多様性うんぬんについても、たぶん『ニッポンの思想』の次に準備しているという『未知との遭遇』でより詳細に説得力を持って示されるのでしょう。ただ、やっぱり違うことを考えてる面もあるだろうなとは思います。まあ違う人間だから当たり前ですよね。じゃないと面白くないし、それに佐々木敦の持っている底なしの何かを捉えることは、今の僕には不可能でもあるでしょう。


ところで「個」については、快快などのパフォーマーが登場してきたことで「これからは集団の時代だ!」という見方もあると思うんですけど、僕はむしろ逆のほうに注目していて、あくまでベースとしては「個」があると思っています。単純に、年齢が上昇したり、活動を継続していくためにはやっぱり「個」であることを問われるだろうなというのもあるし。ただし、それがいわゆる90年代的な、「自分探し」とかの「個」に回帰するものでないことはハッキリしていると思います。その大きなポイントは、「個」がもはや様々な資本や能力やデータベースを「私」という枠組みの中に回収・所有できなくなってきていること。それらは「私」の外部にあって、それをその時々に応じてうまく引っ張ってきて利用していくという形にならざるをえない。ヒップホップ的なグルーヴ感とか友達感覚、仲間感覚もそういう場面で生まれると思います。ただ、そうやって「私」の領域と「公共」的な領域が近接し融解していく中で、それでもやっぱり「個」は問われざるをえない、というのが僕の考えです。その問い方自体は多様になっているので、「何かその人がすごい才能を持っていなければ個性として認められない」みたいな脅迫的な迫り方を誰にでも彼にでもするものではないと思いますけど、卵を外側から突っついて、そこから雛が自ら殻を破って出てくる、みたいなことにはなるでしょう。つまり自発的に「個」が誘い出されるようなことになるのではないかと。ちなみに多様な「個」が表出してくるとはいえ、それらは「ゼロ年代」的なゲームボード上でのギスギスしたサバイバル競争、みたいにはならず、たしかに生き延びるのは大変なことだが、それはいつの時代でもある意味そうなのであって、何か新しいことを始めるにしても、既存の椅子の取り合いではなく、どんどん新しく橋を架けて作っていけばいい。それは東京の、しかもごくごく狭いスペースだけにこだわらなければ全然可能なことだと思うし、すでにその下地はいろんなところに出来つつあると思います。


あと新聞や雑誌・書籍など出版メディアがどうなるかは正直ちょっとわからないです。劇的な変化は免れないだろうけど、経済的な要因も不透明だし、単にマスメディアが解体するとも思えないし、ミニメディアが流通するためには様々なハードルがあることもわかっているので、あんまり楽観的なことは言えない。ネットとの繋がりを強化するにしても、課金システムの整備なんかは難しいでしょう。広告収入や購買意欲のことを考えても、わりと景気に左右されてしまう気もしてます。ただそういう意味では、メディアを創造・運営する人たちにとっては、どこかにはあるはずのお金を動かすということが、かなり切実に必要になるのかもしれません。できればミニコミ的なものが増えて、かつ流通していける仕組みを少しずつ構築していけたらいいなと思ってはいるんですけど。坐して待っていてもなんにも好転しないが、かといって仕掛けるにはいろいろ足りないなあ、というのが正直な実感です。




個人的には最大の関心は最後のところで、フィクションという要素。これを、単なるウェルメイドな物語への回帰(起承転結とか、泣ける話のパターンとか、ノスタルジーとか)とは違う形で見い出していけたらと思っていて、具体的には主に小説、映画、演劇において、ということですけど、それらがそれぞれに蓄積してきている/秘めている手法でどんなものが生み出せるか、注目したいと思っています。ただ、物語がダメだ、とは全然思ってません。むしろ語るべき物語は全然あると思う。ちなみに自然主義リアリズムと距離をとる、というのは、岡田利規が去年あたりからずっと明言していることであり、あるいは「時間」というものに特異なオブセッションを抱いている磯崎憲一郎もまた、別の方法でこれを乗り越えようとしている気がします。あと極めてハイブリッドな動きが見逃せない古川日出男が、フィクションという枠組み自体のスケールをどこまで拡げてくれるだろうか、という楽しみもあります。他にも名前を挙げたい人はたくさんいますけど、それはまたおいおいということで。まだ世の中に知られてないような未知の才能に期待するところもやっぱり大きいです。その意味では、批評家たちに頑張っていただいて、新しい才能を呼び込めるような土壌を耕してほしいと思ってるんですけど。


ちなみに批評ついでに言えば、いくらなんでも、みんながみんなヱヴァンゲリヲンから何かを必死で読み取って解釈して、っていう近年続いた状況は病的にすぎると思います。解釈が解釈を呼んで肥大していった例だと思いますけど、これまでエヴァ周りで面白かったのは、僕としては「キレなかった14歳りたーんず」のキックオフパーティで快快の山崎皓司がやった「逃げちゃダメだ!」のパロディくらいです。単にバカをやっただけ、と言えばそうかもしれないけど、あれはこーじ君が出演していた杉原邦生演出の『14歳の国』にも明らかに通じているものがあると思うし。「キレなかった14歳りたーんず」が、なんでわざわざ「キレなかった14歳」という名前を冠しなくてはいけなかったのか、ということもやっぱり「ゼロ年代」的な言論状況の閉塞感と無縁ではなかったと思います。そういう中で、快快の、時に破壊的とさえ思えるような身体を持った「個」の動きが今後どう突き抜けていくのか、ってのは注目に値すると思います。これから客演とかも増えてくるだろうし。面白いのは快快だけじゃないですけどね。


さて以上は総論として、2009年の夏の時点で大体こういうビジョンを持っている、ということにすぎず、どんどん更新されていくと思うし、あんまり総論には意味ないと思ってるんですけど、とはいえ木を見て森を見ずもアレなので、節目っぽいこのタイミングで少しまとめてみました。基本的にはこうしたビジョンを持って今後も活動していくんだろうと思いますが、この枠を各作品に無理矢理当て嵌めて観たり読んだりする、ということはしたくないと思ってます。こうした、まとめ的に僕自身の頭で構築したものなんて卑小なものにすぎず、目の前にある作品(人)のほうが常に偉大である(少なくともその可能性は高い)と思っているので。だからバリバリ自然主義リアリズムでも、そこになんらかの発見があればいいのです。


ではー。あ、田舎で避暑するとはいえ、ちゃんと(かどうかはともかく)あっちでも仕事しますんで。お待たせしている人すみません。とりあえず、花火と夏祭りが待ってるぜ。