反ナルシシズムとしての「オント(恥)」


ひさしぶりに倉橋由美子を読んでみたらすごく面白い。不覚。離れられない止められない。けれど既視感もあって、それは随分前に『聖少女』を読んだからとは別の理由で、なんだろうと思ったらそうだあの人だ。村上春樹の小説群、とりわけ『ノルウェイの森』は倉橋由美子の『聖少女』にとてもよく似ている。
あまりにも似ている。*1


それはさておき『聖少女』のなかには、吉本隆明のあの詩「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」*2を明らかに意識して書かれたとみられる箇所もある。四方田犬彦『ハイスクール1968』によると、学生運動バリケードを目の当たりにする若き四方田青年(1953年生まれ)の精神形成にとって、この吉本の詩は、刊行から十数年の時を超えて非常に重要な役割を果たしていたらしい。運動にノリきれないが時代の空気を吸って百軒店とか新宿とかのジャズバーに入り浸っていた、そんな四方田犬彦のような若い青年は他にも少なからずいたはずで、当時のそんな一匹狼系の若者、とりわけ男の子たちに吉本の詩がなんらかの心理的な影響を与えていたとするなら、倉橋由美子はすでにその数年前(1965年)、次のような一文をまるで毒でも注入するかのように作品のなかにこっそり忍ばせていたのだ。

 すでに未紀に話した以上、ぼくの骨にたくわえられていた恥の毒性は、この公開によって分解されていたのである。それはいまとなっては三人称で語ることのできるひとつの事実にすぎない。こうした効果はひとまずぼくを安定させた。あるいは、ぼくにたかをくくらせてしまった。要するにぼくが必死のおもいで不法所持してきた兇器は、いざひとまえでとりだしてみると、ぼくの期待に反して、全世界を凍りつかせる威力をふるうどころか、たちどころに理解され、無力になり、ものわかりのいい微笑とともに押収されてしまったのである。

  倉橋由美子『聖少女』


倉橋由美子は、当時から同世代の大江健三郎石原慎太郎と並び称されていたというけれど、果たして当時の若者たちはどんなふうに倉橋の『パルタイ』や『聖少女』を読んでいたのか? 単に、運動とか組織に批判的な、やたらと性的な描写の多い作家としか思われていなかったんじゃないか。そんなふうにも邪推してしまうし、その過小評価は今なおずっと続いてる気がする。もちろん他の女性作家と同じく、すごく好き、という読者はある程度の数いつづけているとは思うのだけど、大江や石原がそのあと築いた地位や権力に比べると、やっぱりどうなの、という気はしてしまう。


ともあれ、このあたりは近代以降の日本のナルシシズム私小説を考える上で非常に重要だとおもう。言い方を変えれば、「世界」把握の方法として、倉橋由美子の文体の立ち位置や政治的なものとの距離感には非常に独特で興味深いものがある。*3近代小説、とりわけ男性主導の私小説的なそれにおける自意識の結集の仕方(ナルシシズム)に対して、倉橋の「オント(恥)」の概念は、その基盤を足下から掘り崩す地雷のようなものだった。あるいは反作用として立ち現れていたともいえる。となると、それこそ「恥」知らずな、オントの織り込まれていない平板なナルシシズム満載の私小説に対して、倉橋が攻撃的になるのは理解できる。*4


だが、男性的なマチズモを内包したナルシシズムをどう乗り越えるかといった時に、日本の文学が大きく舵を取った方向性は、どちらかというと倉橋のようなオントを基盤とした想像力ではなく、身の回りの日常的な出来事を描く、という針路、すなわち小さな物語を志向するリアリズムのほうに向かったようにも思われる。そしてそれは決して倉橋が望むものではなかった。……というのはあまりにも簡単なストーリーを作りすぎかしら?




でも今はあんまりそっちの探究には深入りしすぎないようにします。労力も要しますからね。たぶんね、こういうことを書いてしまうのはきっと風邪薬のせいなのですよ。とりあえずは快楽として、精神的な燃料として愉楽的に読みたいです。そして早く風邪をなおそう。あと前回のエントリーで引用した箇所に近いものを、少し長いけども引用だけしておきます。これもすごいよ。

 いつのまにかぼくは二流小説家風の文体を獲得しはじめているらしい。だがいまぼくの書いているものが、首尾よく小説というものに化けるかどうか、ぼくは知らない。もともとぼくには小説を書く気がまえなんかなかったのだ。しかし七月にはいってもヴィザがおりず、こうして宙吊りになっている状態では、なにかを書かずにはいられないものだ。ひとは跳べないときに書くのだろう。
 これまで、ぼくは小説というものを書いたことがなかった。小説を読むことなら大好きだが、それはまあ、酒を飲むのと同じ種類の愉しみに属する。よい小説に舌をひたしていると、それはぼくを酔わせ、骨をあたためる。ところが自分で小説を書くとなると、それは手のこんだオナニーと同じことではないかとぼくはおもっていた。だからぼくは文学青年たちに対してきいしい偏見をもちつづけてきたのである。じっさい、ぼくらの世代からみれば宝永四年の富士山爆発よりも遠い昔の伝説としてかおもえない六全協のあと、寮などには、自分の排泄物のうかんだ感傷のどぶをかきまわしてその匂いを嗅ぎながら小説を書いているような連中が多かったというし、アンポのあとでは、革命ごっこから芸術ごっこに移っていったアヴァンギャルドが目についたものだ。六全協時代のじいさまをみると、そのぬれた雑巾みたいな自意識をぎゅっとしぼってやりたくなるが、安中派の連中ときたら、なにもかも宇宙ロケットみたいに射ちあげて行方不明にしてしまったとみえる。とにかくぼくはこうした連中を軽蔑していたおかげで、自己救済をめざして小説を書きながら自分で酔うというオナニスムの悪習にそまることがなかったのである。しかしこうして書きはじめた以上はどこまで迷いこむかもしれない地獄への旅にでたようなものだと覚悟をきめる必要があるだろう。
 目がさめたのは午前七時。東に窓のあるぼくの部屋ではもうこれ以上寝ていられない。ゆうべはカーテンをひき忘れたので、日の出とともに悪意にみちた軟体動物のような熱気が窓から侵入してきたのだ。三時ごろまで書きつづけて興奮したまま眠ったが、朝まで頭のなかを蟹の行列がはいまわっていた。なんとかしてそいつを原稿用紙のうえに追いだし一匹一匹を四角い容器にとじこめようとするが、うまくいかず苦しい。おきあがるとまず机のうえの原稿をみた。ぎこちない字がならんでいて、不毛の地の畑に種をまいたあとをながめるようだった。収穫期はほど遠いという感じが絶望の棘となってぼくを刺す。なぜぼくはこんなものを書きはじめたのか? ゆうべ、ぼくの目のまえには一瞬にしてできあがった小説が全長四十メートルもあるディノザウルスの図体をしてころがっていた、とみえたのは幻で、よくみると、肉は腐りおちてがらんどうの骨骼ばかり。いやそれさえもあくびの息のひと吹きで吹きはらわれて形をとどめない。手に握りしめているのは一片の鱗にすぎなかった。これに魔法をかけてふたたびあの全体をつくりだすにはどうしたらいいか、おそらく小説という怪物を成育させる術は、これに時間の餌を喰わせる以外になさそうである。つまりはこれからぼくが生きる時間でこの怪物を養い、最後はこのぼくが小説に化けてしまうこと。そうと心をきめれば全速力で書きつづけるだけである。

  倉橋由美子『聖少女』 色の変わっている箇所は傍線

*1:けれど、さっと検索してみてもその指摘があんまり見あたらないのは、松岡正剛「千夜千冊」の冒頭で「今日のあまたの現代小説、なかでも村上春樹吉本ばなな江国香織に代表され、それがくりかえし踏襲され、換骨奪胎され、稀釈もされている小説群の最初の母型は、倉橋由美子の『聖少女』にあったのではないかと、ぼくはひそかに思っている」し、そんなことは読めばすぐにわかると釘を刺してるせいだろうか? あるいは誰もが知ってはいるけど口にはしない真実なのかな? 栗原裕一郎『〈盗作〉の文学史』にもこの話は載ってなかったと思うし、特に事件性や話題性はなかったのだろう。それにしてもよく似ているなあー。似すぎていて、とくに電話ボックスのくだりなんてオマージュかなにかとしか思えなかったですよ。

*2:「廃人の歌」、詩集『転位のための十篇』1953所収

*3:ちなみに松岡正剛が上記の「千夜千冊」の最後に『聖少女』を評して「少女のオントロジー」という言葉を使っているけれど、「オント(恥)」と「オントロジー存在論)」って語源的には関係あるのかないのか? どちらにしても倉橋由美子にかぎっていえば明らかに両者は結びついている。

*4:だが、じゃあそうなるとやっぱり気になるのは太宰治に対する倉橋の評価はどうなのかってことで、近いうちに『偏愛文学館』の中の太宰論を読んでみたいです。