乞局『汚い月』


醜悪である。舞台空間が異様にスカスカで、ひりひりとした郊外的な渇望感がある。登場する人物たちはことごとくどこかが壊れていて、ありえない会話がそこかしこで展開される。


ミヒャエル・ハネケ監督の映画『ファニーゲーム(USA)』にも似た、妻が来訪者たちによって蹂躙されていく会話劇であるこの『汚い月』では、「電話で済む程度の用事」であるにもかかわらず、来訪者たちは繰り返しこの妻の部屋にズカズカ入り込んできては、彼女の小さな生活や心を平気な顔で踏みにじっていく。妻は決してこの部屋に閉じ込められているわけではなく、何度か外出して不在になるし、時には強権的に振る舞ったり強い口調で反撃したりもする。けれども結局のところ、鍵もまともにかからないこの部屋で来訪者の襲撃をさまたげることはできない。唯一、外部との連絡手段となりそうな(舞台の右端に置かれた)固定電話も、残念ながらほとんどの場合、新たな来訪者の存在を告げる醜いインターホンの役割しか果たさないし、たまに外部と繋がったと思ってもそこから聞こえてくるのは一方的に何かを告げる声にすぎないのだ。かろうじて彼女を窮地から救ってくれるのは、飛行機の爆音だけであるともいえる。そして、ついに最後の一撃が妻に下される……。




5年前の初演や京都バージョンを観ていないので比較できないけども(というか実は乞局の観劇自体なんとこれが初めてなのだけど……)、今回の東京バージョンから客演している〈旦那〉役の村上聡一(端正そうに見えて壊れた感じ)と〈旦那の妹〉役の伊東沙保(不思議な華がある)によって、おそらく作品の雰囲気も相当変わっているのだろう。ふたりはちょうどこの芝居における「静」と「動」の象徴みたくなっていて、この芝居全体の動き(?)の幅を形づくっているような感もあった。しかしいっぽう、京都版からのオリジナルメンバーも奇妙な役人物たちのキャラクターをモノにしていて、気持ち悪さを存分にふるう。個人的には〈右目の女〉と〈3Fの年齢不詳の男〉と〈興信所の男〉が面白すぎたけども、とにかく多彩なキャラがいて楽しかったりする。


だけれども全体として好きか嫌いかと言われれば、「あまり好きではないね……」と答えてしまいそうなお芝居ではある。その最大の理由はたぶんあの舞台の(おそらくは意図的につくられた)スカスカ感で、浸透圧的な原理原則からして、観ているこちら側の脳内が、あの舞台空間までうっすらと引き延ばされるような気がしてしまわなくもない。このスカスカ感に、ある種の郊外ヤンキー文化的な匂いのするリアリティがあることはわかるけども、どうせならもっとハッキリと濃縮された気持ち悪さを舞台に置いてくれたほうが好みではある。それは決してわかりやすいものを求めてるということではなく、作品には凝縮された密度が欲しい、という私的な嗜好のせいなのだし、端的に好みの問題だろうと思う。ちなみにこのキャラクターたちの中に他者への愛が感じられるのは、〈右目の女〉が嘔吐している〈旦那〉の背中をさすっているのが光の影としてうっすら見えるシーン、そして〈妹たち〉と〈赤い花〉との渇いた関係、あとはラスト近くの〈旦那〉の×××……。


けれどもこの薄気味の悪い、ネジのはずれた『汚い月』の登場人物たちによって、どこか不可思議な別世界へと連れていかれる感覚はたしかにある。まさに作中人物の〈旦那〉が目論んでいるような、中毒性・感染性もあり、もう二度と観たくねえ、でもまた観たい、という気持ちになるのもわかる気がする。そして他の人に勧めるかどうかといえば、勧めない、いや勧める? でたぶん結局「勧める」が勝ってしまうのだ。いったいこの毒性は何か? わからないけども、不思議な爽快感があったのはたしかで、そのスッキリ感は役者の持つ華がもたらしたものかもしれないし、あるいは憎しみとか人間の本性といったものとは別の、やっぱりどこかで他者を求めているのであろう演出家の手つきがこの作品を駆動させているからではないか、とも思った。いつかまた喪服を着て観に行ってみたい。


11月12日(木)まで笹塚ファクトリーにて。(上記は2009/11/10のマチネを観劇)

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