池袋西口公園の記憶とF/Tとやさしさと


「ねえ・・・ひとが・・・間違った時代に生まれるなんてこありえると思う?」


ありえると思ってた。というか、よく思ってた。いつも思ってた。でも今は、そんなことないって思えてる。ということを、上の言葉に触れて気づいて、ちょっと泣けた。今夜、池袋西口公演で行われた飴屋法水演出のパフォーマンス。ビルの建物に、上の言葉が字幕として映し出されてた。


これはその時に思っていたことではなくて、今書き始めてふっと思ってしまった、いかにもナイーヴな記述だけども、今回フェスティバル/トーキョーが拠点にしていた池袋西口公園東京芸術劇場前)は、ぼくが10代の後半に足繁く通った場所だった。毎晩、あそこを歩いて、とある溜まり場に向かってた。それはどちらかというと、あまり思い出したくない光景である。10代の頃、ぼくにはほとんど仲間がいなかったし、とても孤独だった。友達と呼べる人間はいたけれど、それはまったく孤独を埋めてくれるようなものではなかった。恋愛もしかりである。ネットすらない。中学生から一人暮らしだったので家に帰っても誰もいない。そういう中であの道を毎晩歩いてた。


なんだろう、その場所の、同じ土地の上で、おやじカフェとか、快快のゴリラとか、今夜の飴屋さんのパフォーマンスとかやってくれて、本当に良かったと思う。たぶんずっと、ぼくはあの場所を憎んでいたので。でも好きになっちゃったな。それは、もちろんフェスティバル/トーキョーとも個々のアーティストともなんの関係もないことだけど。


でも、ある表現が、個別具体的な身体をともなって、個別具体的な土地の上で為される、ということが、人間の記憶を更新するというか、上塗りするというか。それは、ジェノサイド的にある土地の記憶を蹂躙していくということじゃなくて、ある記憶の層の上に、あたらしい記憶を重ねていくというか。それが、ぼくは「やさしさ」だと思うのだ。(いかにも唐突ではあるけれど)


そういう「やさしさ」をもって表現に臨んでる、というのが、ぼくが演劇やそれに関わる人たちが好きだということの秘密かもしれない。と、そんなことを思いました。