「劇評」論(2010.4.9 ver.)


とある必要があって、目の前の仕事に取り組む隙をみて、劇評についてちらほら考えている。それについて以下に記すけども、忙しくなるとついこういうことをしてしまうのは困った性質です。とはいえ面倒なので(時間がないので)、柔らかく書くとか、優しく書くとかいったことについては現時点では一切考慮しない。それは自分にとっては本来あまり好ましいことではないのだが、とはいえメモとしてまとめることにする。おそらくこの短い論考は、劇評というものがパフォーマティブに、ある種うやむやに書かれ、消費(すらされずに流)されていく、ということに対する一種の抵抗の狼煙であり、プロトタイプである。


さて劇評サイト「ワンダーランド」の劇評セミナーが、こまばアゴラ劇場でもうすぐ開講される。たぶんこれまで以上に注目される企画だし、これを機に、劇評というものが新たなフェーズに突入するかも? といった期待も少なからずある。ひとつの事件である。
http://www.wonderlands.jp/info/seminar2010/agora01.html



自分は劇評について、これまでどちらかというと批判的・否定的な見解を述べてきた。それは既存の劇評(とされるもの)に納得いかないことが多かったからで、劇評自体無いほうがいいとは思わない。だが今は誰でも簡単に「書ける」時代であり、もはや「プロ」と「アマ」の線引きも難しい。その詳細については省くことにして、ここではとりあえず型通りの「プロ/アマ」論争は脇に追いやっておく。とにかく誰もが書き手になりうるのは事実なのだから、何がどう書かれるか、そしてどう読まれるかが重要であるという立場に立って「劇評」について考えてみたい。



劇評の役割


劇評に定型はない。しかしだからといって、飲み屋でわいわい喋るような話を誰でもパブリックな劇評として垂れ流して良いという法はない。劇評はなんらかの影響を及ぼすのだし、評された対象に迷惑がかかることだって当然ある。書くことは恐ろしいことであり、誰かを傷つけたり、時には人を殺すことだってあるのだ、と肝に銘じておきたい。ならば、どうせなら最初から書かないほうが望ましいのか? そうかもしれない。しかしたとえそうであったとしても何らかの理由で書かざるをえないのだとしたら、書き手にはせめて「様々なパターンがありうる中で自分はこの書き方を選択している」くらいの自覚はあったほうがよい。


そこで劇評に求められる役割について整理すべく、その果たす機能を以下に書き出してみた。「批評」という言葉はややこしい混乱を招きかねない概念なので、ここではあえて使わない。

A1=記録集合知や後世のアーカイブの一部として情報化することが目的)


B1=読者への宣伝・情報伝達(読者に公演情報を伝えて集客に繋げることが目的)
B2=読者への快楽の付与(読者にパフォーマティブな文章を読む楽しみを与えることが目的)
B3=読者の認識の拡張(その公演を観たか、すでに関心を持つ読者の認識を押し広げることが目的)★★


C1=執筆者自身の快楽(執筆者自身が書くことによる自己満足的な陶酔を味わうことが目的)
C2=執筆者自身の再認識(執筆者自身が書くことによって新たな発見を得ることが目的)
C3=執筆者自身の報酬獲得(執筆者自身が書くことによって金銭を得ることが目的)★★


D1=作り手の発掘・周知(未知の才能を発掘し、またその存在を読者に周知させることが目的)★★★
D2=作り手への刺激(作り手に刺激を与えることが目的)★★
D3=作り手の鼓舞(わりかし孤独な作り手を鼓舞し、励ますことが目的)★★
D4=作り手への従順さの表明(作り手に気に入られるのが目的)

★印は、自分が書く(あるいは編集者として誰かに書いてもらう)場合、個人的に重要だと考える度数であり、絶対的な基準ではない。どこに重点を置くかは、執筆者や読者によって、あるいは劇評が求められる状況によっても異なる。与えられた文字数によっても変わるだろう。場合によってはB1(宣伝機能)が切実な最重要課題とされることもあるかもしれない。ただC1(自己満足)が書き手として最も稚拙な動機であることは火を見るよりも明らかであり、およそ劇評を書く人間は可能なかぎりこれを遠ざけなければならない。D4(作り手への従順さの表明)についてはわりとどうでもいい。


自分としては、D1(作り手の発掘・周知)が劇評の最も重要な役目であり、続いてD2(作り手への刺激)とD3(作り手の鼓舞)とB3(読者の認識の拡張)があり、A1(記録)とB2(読者への快楽の付与)とC2(執筆者自身の再認識)もあったほうが好ましいと考える。当然ながらC3(報酬)はあったほうがよい。とはいえ、単純にお金が欲しいだけであればもっと割のいい仕事はあるはずだ。



劇評の対象


さて次に劇評の対象となるものは何か。現在の劇評の多くは、作家論よりは作品論に比重が置かれており(「劇」評なのだから当然そうなる)、とはいえ「作品」として名指されるものの範囲は不明瞭である。果たしてどこから演劇(作品)は始まり、どこで終わるのか? ……答えは人によってばらけるはずだ。そして結果的に劇評では、戯曲と演出と俳優という、目立って見える部分が言及されることが多い。しかし実際の演劇公演は様々な要素から成り立っており、少なくとも以下の要素を列挙できる。

1【戯曲・翻訳】
2【演出・音響・照明・映像】
3【俳優・衣装】
4【劇場・舞台美術・客席】
5【上演時間・公演スケジュール】
6【宣伝美術・広報】
7【客入れ・前説・イベント・アフタートーク・ロビー】
8【企画者・プロデューサー・ドラマトゥルグ・制作】
9【劇団の歴史と構造・劇団員の性格や人間関係・その他】
10【執筆者の感想(愛や謎や呪いや祈りなど)】

劇評というのは基本的にパフォーマティブなもの、つまり適当に書いていても面白ければ(あるいは面白くなくても)成立してしまうので、こうした構成要素をその都度適当に好みでつまんでチョイスして、なんとか「芸」として成立させてきた、というのが本当のところだろう。とはいえ「芸」のほうにばかり関心が向かって、肝心の「観る」ということが疎かにされても本末転倒である。


そこで差し当たって自分としては、少なくともまず「観る」ことが最低限必要なことであり、これらの構成要素が有機的に結びついて厳密には分離できるものでないとしても、それらをあえて切り離して分解できるような目をもって「観る」ことが必要だ、と考えてみたい。この中から何を拾い、何を捨てるか、そしてそれをどう「書く」かは別にしても、まずは分解し、突き放すこと。そこに距離感を持つこと。



劇評の成立する場所


最後に、劇評は、どの媒体(メディア)に書かれるのかが重要になる。媒体こそが、執筆者と読者を繋ぎ、結果的に劇評を成立させるからである。現代では、それは当然ながら紙媒体とはかぎらないので、ウェブなのかメールなのか、あるいは読者が受信する端末はどういったもので、読む時のレイアウトはどうなっているのか、についてまで考慮したい。


当然ながら各媒体には一定の読者層というものがある程度存在する。しかし書き手としては、その媒体の編集部が想定する読者層におもねるのではなく、むしろその媒体を利用しつつ、新たな読者を開拓するというくらいの気構えが欲しい。なぜなら、今ではその媒体を運営しているはずの編集部でさえ、読者層に関しては苦慮し、迷走し、混乱しているのだから。果たして3年先も生き延びていると確信を持って言える媒体がどれだけあるだろうか?(答えはゼロである) 書き手はそういった媒体=編集部の思惑や目配せを熟知しつつ、そしてその期待にある程度応えつつ、とはいえ時には、その目論見をしたたかに裏切りたい。いい意味での裏切り。



劇評の主体


構想中。

劇評の文体


構想中。

劇評のLOVE


構想中。