あとちの会


北沢タウンホールで「あとちの会」のイベントがありました。これは小田急線の世田谷代田駅東北沢駅のあいだ、つまり下北沢駅周辺の線路が地下化されるので、その線路跡地をどう有効活用するか考えよう、という趣旨の会です。(だと思います)
http://atochi.net/



詳しいレポートはまた仲俣さんが書くかもしれないし、今後「路字」に載せたりするかもしれないのでここではしませんが、でもあんまり出し惜しみしてもねえ。貴重な写真や映像を観たり、たいへん興味深い証言を聴くことができたりして、実にスリリングな会でした。正直なところ、スリルは求めてなかったので予想外の展開でした。ただ惜しむらくは参加者がもっといてもよかったかなーと思います。でも会場にはあんな人やこんな人の顔も見えました。とにかく面白かった。



ひとつだけ。アーカイヴを残そう、というのが「あとちの会」の目的のひとつのようですが、たとえば僕は図書館に行ったり、ネットで検索したりして、調べものをします。そこからいろんな情報を引き出して、それを形にする、というのが編集という仕事の一面だったりするからです。でも実はネットに上がっている情報ってそれほど多くなかったりする。特に今日の「あとちの会」で触れることのできたような情報は、ほとんど皆無といってもいいでしょう。あるいは図書館にいけば、奇跡的にいくらかの写真や証言を目にすることができるかもしれませんが、そのような記録を残す仕事を誰かがしているとはかぎらないし、仮にあったとしても今日のような個人所蔵の写真や証言はかぎりなく少ないはず。それに、図書館なんかでは、これを調べよう、という意志がないと、その情報にたどり着くことはほとんどありえません。書庫に入ってしまっている本も多いので、たまたま目にする、という偶然性もそれほど期待できない。だからこそ、今日のようなイベントを開くことには意義があると思います。


要約すると、さまざまな記憶をアクセス可能な情報としてアーカイヴしていくということ、そしてそのアーカイヴ自体に接触する偶然性を確保するためにも様々なイベントや有効な告知を行うことが、とりあえずは「大事」だということです。


さてしかし、ここでなぜ「大事」という言葉を括弧でくくったのかと言えば、
http://d.hatena.ne.jp/solar/20080223/p2
で仲俣さんが書いていた青山真治のコメントにつながってきますが、記憶を残そうという運動は、古き良き時代を懐かしむノスタルジーに回収されて昔は良かったね、的な話になって、一種のカタルシスを得て終わることだって往々にしてあるわけです。*1誰に対して何を残していくのか? それは人によって違うのかもしれないし、結論はひとつでなくてもいい。むしろ、ひとつでないほうがいい気もします。*2最後の最後に、ネバーネバーランドの新オーナーの下平さんが「コミュニケーションこそが下北沢の資産だ」というようなことを言ってたけれど、たしかにそれはほんとにそうで、よくもわるくも、これだけコミュニケーションできる可能性に満ちた町というのは他にはなかなかないと思います。たぶん世界レベルで言って。とりあえず生まれたばかりの「路字」は試行錯誤の日々。今日はひさびさに自転車に乗ってみましたが、ある場所でたまたま出会った人にひとつ取材のアポをとりました。次回創刊号(1号)もお楽しみにー。

*1:さらにいえば、編集や出版というのもひとつの虚業という側面はあるわけで、たとえば「路字」をつくっていろんな人の話を聞いたからそれでいいのだ、たしかに現実に下北沢の町はでっかい道路ができて変わってしまうかもしれないけど俺たちとしてはやれることはやったのだ、という“言い訳”だって可能になる。でもそれでは意味がないと思うのです。それこそ森林伐採に加担することになるし、他人の顔色をうかがってその“言い訳”のために生きるとかそんなのってイヤだし。だからたとえば、今の時点では、「路字」のとりあえず創刊準備号をつくりました、としか言えないし、それで何か貢献したとかそういうことはまあ10年くらいやったら言ってもいいかもしれないけどそういうことは言えない。それで現実の町が変わっていこうとしているのにお前たちはのほほんと紙媒体なんかつくりやがってと言われたら、はいそうですとしか言えない。おや今日はかなり思考がストイックですよ。でもほんとに、それしか僕にはできないのでやってます、そしてどうせやるなら楽しくやるほうが断然いいと思うのでそうしているだけで、お金になるならともかく、ただ働きで苦行としては僕は何もしないし正義感とか体面とかそういったものでは僕は動けないし動きません、と言うことしかできません。■■■たしかにこれはある種の無責任ではありますが、でも妙な責任感もどきで苦行をしてしまうということは僕自身に関していえばほんとにしてはいけないことだと思っていて、そこでなしくずし的に責任ぽいものの浸食を認めてしまうことこそが、僕自身としては最大の倫理違反であり他者に対する無責任なのです。それぞれがそれぞれの持ち場でほんのちょっとだけ頑張れば、世界はわりかしハッピーだ、というのが、僕の持論ではあるので。なんの話だこれ。

*2:町ぐるみ、とか、町をひとつに、と言ったことがよく言われますが懐疑的です。実際ぼくは昔、地方都市をコンサルタントの助手として回る仕事をしていたことがありますが、その経験からいうと、実際に町のポテンシャルを感じるのは、町ぐるみの一体感というよりは、むしろある町の中にさまざまな考え方や価値観の人たちがいてそれが根を張っている、という草の根的生命力のようなものからでした。