いくつかの事件について


土浦の無差別殺傷事件につづき、今朝は広島の廿日市自民党平口洋衆議院議員が演説中に襲われたそうです。私はあんまり、そうした事件についてジャーナリスティックに語るような手法を持っていないというか、封じているし、複数の事件を結びつけて語ってしまうことにも注意が必要だとは思いますが(特に後者の事件は私怨の可能性もまだあるし)、仕事やら計画中のことやらを整理するためにも、少しだけ、気になっていることをメモしておきたいと思います。


いつの時代にも、あるいはどんな場所にも、持てる者と持たざる者の格差は存在するし、その結果としてのルサンチマンが醸成されるであろう、ということは想像に難くありません。とはいえやはり、現代の日本における人間の孤立とルサンチマンについては、精神分析的に見ても、社会構造分析的に見ても、かなり特殊な問題があるのだろう、と思います。またその解決策として、個人を変えるとか、あるいは社会を変えるとかいうやり方は、それはそれで否定はしませんが、やはり理念的なひとつのやり方では限界があるだろう、とも思います。


私自身に関しても、狂気のようなものはやはり孕んではいるわけで、そのことについて、二十代を通して恐怖を感じていました。そして、三十歳になって、では精神的に落ち着いて大丈夫になったかというとそんなことはなくて、むしろ「狂気とはそういうものだ」というある種の諦めを得ることで、当座の解決を見ている気がします(開き直り、という意味では決してありません)。実際、私はこれまでに自分で自分のことが制御できないという人は(年齢にかかわらず)たくさん見てきたし、自分が絶対にそうならないという保証はどこにもないのです。これはもはや、良心とか責任の問題だけで解決できるものではないし、したがって「大人になる」ことで全面的に解決されるものでもない。良心や責任を司る人間の理性というものは、私は「ある地点」を越えた先からはもはや信用できないと思っていて、だからその点を越えないようにするためにはどうしたらよいか、あるいは越えてしまった場合に(物理的な手段も含めて)どう対処すればよいか、ということは、常々考えています。


で、ここまで書いてきたところで、実は今やっている仕事に思いっきりこの問題は関係しているというか、むしろ私のこの考え自体がその仕事に影響されたとも言えるので、まずはそれをやることにします。と、尻すぼみですみません。来月にはアウトプットされるものなので。


それともう一点。「路字」のような小さな紙メディアをつくるのも、この種の恐怖と狂気に対する処方箋ではあります。それは意識してというよりは、結果的にということですけど。ではでは。