ペドロ・コスタ監督特集

5月にイメージフォーラムで公開される新作「コロッサル・ユース」に先駆けて、3月20日から28日までアテネ・フランセ文化センターで行われたペドロ・コスタ監督特集。「骨」を見逃したのは痛いけれど、数日間で「血」「溶岩の家」「ヴァンダの部屋」「映画作家ストローブ=ユイレ」、それに短篇「六つのバガテル」「タラファル」「うさぎ狩り」を観ることができた。最後は2時間におよぶペドロ・コスタ監督のトーク。拍手がしばらく、鳴り止みませんでした。


映画館にいるとその時間は拘束されてしまうので、たとえば3時間におよぶ「ヴァンダの部屋」のような作品であっても、腹をくくって観るしかありません。けれども、なかば強制的に長時間その映画の世界とつきあっていると、時間の感覚も麻痺してくるし、趣味や嗜好なんてものも、それほど問題ではないような気がしてきます。たんに、その世界に浸る、ということでもない。共感、とはほど遠い。なのに、たしかに映画はそこにあって、それを観ている、という事実もあるのです。


ペドロ・コスタのほとんどの作品、とりわけスラム街のフォンタイーニャス地区に舞台を定めてから以降は、物語の筋も起承転結に沿ったようなものではなく、しかも個々の映像はイメージを喚起して刺激してくるので、ついつい目の前の映画から思考をそらせて、思い出や雑多な考えに意識を泳がせてしまいがちです。でも、そうやって妄念に耽り、卑小な自分の体験に引きつけて観てしまうことが果たして「映画を観る」ことになるのだろうか?という疑問も浮かんできました。だからこそ今まさにスクリーンに現前しているそのショットをひたすら凝視し、いたずらに解釈は加えないという、えーっと、いったいこれはなんの訓練なんだっけというような、禁欲的な態度で臨んだのですが、結果的に、忘我の時間を過ごすことができたように思います。すばらしい体験でした。


現時点では、このような感想にとどめておきます。映画の観方ががらりと変わったような気がするし、もしかしたら今後の仕事の仕方も変わるかも、という予感。静かな衝撃を受けました。なお、せんだいメディアテーク刊『ペドロ・コスタ 遠い部屋からの声』もたいへん興味深い内容です。


ペドロ・コスタ 遠い部屋からの声

ペドロ・コスタ 遠い部屋からの声