大阪桃まつり感想3


あと同じ創作活動でも、映画を撮るのと小説を書くのは全然ちがうのだな、ってこともよくわかりましたが、でも大枠でいえば、創作と、批評と、編集(制作)といった仕事のあいだに、それほど境界を引く必要などないということも、いっぽうでは強く感じたのです。最近、小説の世界では「小説のことは小説家にしかわからないのか」問題が物議をかもしていますが、創作と批評と編集(制作)とが近接し、かぎられた時間・空間において密度のある関係性の中に投げ込まれたとき、その結果として生まれてくる熱はきっとある、と思うし、それは観る人にも伝わると思います。大阪プラネットプラスワン支配人の富岡さんが、「映画をつくるだけではなくて、上映することまで考えなくちゃ」ということを繰り返しおっしゃってましたが、上映して観客に届くまでが映画だ、観られてこそ映画なのだ、と考えると、つまり創作はたんに創作だけでは完結しないのです。


映画のことはよくわかりませんが、小説の世界では今や批評の存在はかなりパージされていると言っていい状況です。でもほっといたって誰でも読む(観る)ような作品だけ流通してそれしかなくなっちゃうのでいいのならともかく、新たな才能の発見やこれから書こう(撮ろう)と思っている人への刺激やまた読者(観客)への煽りやガイドといったような場面においては、批評はまだまだ全然必要だろう、と感じます。というようなことを、同行していた葛生賢さん(id:hj3s-kzu)と電車の中でビール飲みながら熱く語り合ったりした結果思いました。*1


ヘンな喩えですが(ゲド戦記とか西島大介のマンガみたいですが)、魔法を使える人が少なくなっている気がするんですよね。だから魔法って何だって話ですけど、たんなる知識量とか情報量とか、でやりとりするんじゃなくて、それらによっていやおうなく配置されてしまうヒエラルキーとか、ものの流れ方?みたいなものを変えられるような力というか。魔法が消えてなくなって、かわりにモノを言うのはやっぱお金でしょう。宣伝を効果的にかければ売れるし読まれるし観られるし聴かれる。逆に売れないものは無視されてなかったも同然になってしまう。資本主義のプリミティブなアイディアは、良いものは売れて、悪いものは淘汰されるというものです。でもそれはあくまでも200年くらい前の牧歌的なヴィジョンでしかなくて、広告が幅を利かせてしまった現代においては、何が良い悪いかといった判断のところにすでに資本が投下されていて、残念ながら多くの人の目に触れる前に(つまり多くの人の審判を仰ぐとかそれ以前の問題として)消え去っていく。繰り返しますが、「いいものは残る」というのは所詮は牧歌的な考え方にすぎなくて、誰かが残さなくてはどんなものも残らないのです*2


自主制作、インディペンデントといった領域におけるインターネットの登場が、広告・資本・マスメディアの三位一体とは全然べつの可能性を見せてくれているのはたしかだと思います。でもネットが救世主になる、といった考えもこれまた他人任せなものにすぎなくて、やはりそこに動画や音源や言葉を乗せていく人間はかならずいるわけです。今回の旅では、実際にたくさんの人に出会いました。あらゆる屋根の下に(ネットの向こう側に)人がいる。彼ら/彼女たちはそれぞれ志を持っていたような感じがするし、ほんとにそれに触れられるのが気持ちよくて、思わず時間を忘れてしまったものです。(つづく)

*1:葛生さんはそれで電車の網棚に荷物を忘れて我々は四条河原町の遺失物管理所まで取りに行ったのですが(笑)、あれはきっと酔っぱらったからじゃなくて熱く語っていたせいだと思われます、とよくわからないフォロー。でも桃まつりに同行しながらもやっぱ批評とかのことを考えてしまう我々はやっぱ男の子なんですかねえ。

*2:おっと都築響一の本のタイトルみたいだ