大阪桃まつり感想4


ふと思い出したのですが、桃まつり大阪上映後に京都に戻って、そこでとある方と鴨川べりのオープンテラスの(?)お店で話をしていた時に、その方が「映像科の学生たちは(音楽科の学生たちに比べて)卒業式の時なんかもオドオドしている」といった話をしてくださったのですが、しかしそのあと桃監督と話をしていて思ったのは、彼や彼女たちは映画(映像)というフィクションを撮ってしまっているがために、オドオドしていても平気なのではないか、という仮説です。ミュージシャンは、自分の手を使って演奏をするわけだし、ライヴなんかだと直接人前で演奏するわけだから、基本的には人前に出ることに慣れているにちがいないのですが、いっぽうで最終的にはその手を離れたスクリーンで勝負する映像系の人たちは、よりフィクショナルな虚像で勝負している度合いが強い、のではないか。もちろん、ミュージシャンの人だってかっこつけたり奇抜な衣装にしたりして「演じる」ことはしているわけですけれども、映像系の人は「演じる」のとはまた別のやりかたで、他人の前に現前する。


そして、オドオドする、というのは、そのような直截的なコミュニケーションをあまりとっていない、慣れていない、ということもあるにはあるでしょうが、私が言いたいのは、彼女たちは“あえて”オドオドしているのではないか、ということです。つまり、オドオドしていても、なんでもあっても、作品が撮れてそれが上映されればそれでいいというか、「なにはともあれ作品を観てくれ」といった類いの自信というものが、実はそのオドオドの影に隠れているのではないか、という気がするのです。まあ、深読みかもしれませんけどね。