mixiと編集者的身体


(構成を少し変えました)閑話休題。大阪で桃ねえさんたちに弄られていた20歳の男の子が、どうやってだかmixiの私の居場所(よくわかったね……)をつきとめてマイミク申請してきてくれたので、迷いましたが受けることにしました。まあべつにmixiくらいどうってことないじゃない、ってのが大方の意見でしょうが、たぶんそこらあたりは私自身のエントロピーとかの問題で、「開く」回路をひとつでもつくってしまうとそこから流れ出てしまうもの/流れ込んでしまうものが、わりと大きいのです。なので、栓をどこで閉めるか/ゆるめるか、といった手綱調整をしていかなくてはと思ってるし、サバイヴするための手段として、他人との距離はつねに一定以上はあけておこう、と思ってるところがどこかしらあるんですけど、関西にいる人とはしょっちゅう会えるわけでもないしなあ、という誘惑(言い訳)にまけて鎖国を解除してしまいました。


さて「大阪桃まつり感想4」と絡めて編集者の身体について考えてみると、編集者というのは映画でいうところの制作の仕事にたぶん近くて、誰かが担当しない仕事はすべて引き受けなければならない仕事です。余白はすべて引き受ける。時にはマネージャーとして、時には社交家として、人の前に見え隠れするわけです。その時、はたして編集者の身はどのようにして守られるのだろうかということを、考えたりはします。もちろん、じゅうぶんな体力とモチベーションさえあれば多少傷ついても問題ないのでしょうが、もはやそうしたものが常に身体の内から自動的に溢れ出してくるのではない年齢にさしかかったいま、かつ、フリーである以上「会社」という隠れ蓑なり武器なりも使えないいま、満身創痍のこの身をどうしてくれようか、ということを漠然と考えたりはするのです。冗談抜きに、生命の危険に直結する問題ではある。


したがって、かなり前から「引きこもりたい」と繰り返し言っているのは、他人に近づきすぎたら身を引く、というようなバランスを取りたいということに他ならないのですが、結果的には時を追うごとにどんどん社交的になっているという状況があるし、アクティブに仕事をするとなると引きこもりとか言ってらんないよね、って話で、「引きこもり」願望は完全に失敗している。仕事をする以上、つねに他人と、それも複数の人間との回路を保ちつつ、そこを動かしていかなくてはならないわけで。そこで、引きこもり/社交、鬱状態躁状態といった使い分けを日々カーニヴァル的に繰り返していくのではたぶんこの先もたないだろう、という予感があります。より強い身体/構え方にバージョンアップする必要がある。たとえばそのときに、エントロピーが増大し、過剰になっている自分というものを認めるのか、あるいは環境問題に配慮してサステイナブルな状態に抑えるのか。他人の評価といったものを解釈する際に、鎧を身にまとって守備力をアップさせるのか、それともノーガード戦術でなりゆきにまかせるのか。あらゆる対象を愛で包むのか、それともぺんぺん草の一本まで刈り取って死屍累々の山を背後に築き上げるのか。さらに言えば前回の話のつづきで、創作と批評と編集と、その中でどのあたりに腰を落ち着けるのか。そのへんを意識して今後の仕事をしていきたいと思ってますが、こんなん考えても結論が出るものではないのでまあ、やるしかないんですけどね。(なんか最近マジメなブログになってますが、旅をするといろいろ考えるんですよ、イメージがいっぱい入ってきちゃうから)