シネマアートン下北沢(走り書き)


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上記ブログをみてとりあえず署名だけでもと思い、シネマアートン下北沢に自転車で駆けつけた。途中、すごく悲しい気持ちになってきて、そのような独りよがりな感傷にひたるのはよそう、と思いながらも泣けてきた。僕は会員でもないし日参するようなファンでもなかったけれど、あの場所にシネマアートンという映画館があることの存在感が、実はとても大きかったことに気がついた。確実に言えることは、シネマアートンがなくなったら、ある種の映画が日の目を見る可能性は確実に減るだろう、ということだ。その映画をかりに上映期間中に観ることができなかったとしても、例えば喫茶店で拾ったシネマアートン発行のフリーペーパーなどで上映情報をぱらぱらと見る、という行為をしたり、アートンの前を通りかかって「ふうん、今こういう映画をやっているのか」という情報を見る、といったことが大きかった。それもできなくなる。


映画館の存在は町にとっても大きかった。シネマアートンで映画を観るために下北沢にやってきて、それまでの時間をお茶してつぶしたり、古本屋でぶらぶら棚を見たり、上映後に飲みに行ったりする人がいたのだから、シネマアートンは町の経済にも貢献していた。いくつかの喫茶店には、映画人もよく出入りしていたはずだ。ひとつの映画館が消えてなくなるということは、そうした人脈――立身出世のためのものなんかではない、もっと素朴で文字通りの意味での人脈――もまた、消えてなくなるということである。


Kさんにご挨拶した。最近下北沢から友達がいなくなって寂しいのです、という話をした。何か元気づけようと思ったのにまったく逆効果だった。いや実際には僕は最近下北沢にかぎっても友達の数は増えているはずだが、そういう問題ではない。まったくない。確実に失われていくものはあって、それはナルシスティクな喪失感にすぎない、なんて切って捨てられるようなものではない。失ったもの、失われていくものについて、酔いしれるのではなくてきちんと考えなくてはいけないような気がした。そうしないと、忘れてしまいそうで怖いからだ。今までは、見ること、考えることが怖かったけど、今は何もかもを忘れていくことのほうが怖い。


まだシネマアートンの閉館が確定したわけではない。とりあえず明日からは休館だけれども、今後どのように事態が推移するか、誰もはっきりしたことは言えないというのが現状らしい。最後にみんなで写真をとった時には、笑顔の人もいた。こんなに素敵な笑顔を見たことはないなと思った。こういう時にこそ存在する笑顔もあるのだと生まれて初めて知ったような気がする。署名活動などに関する情報は、ここでもお知らせしていきたいと思います。