ゾンダーコマンドの倫理


うーむ。このところ、読むこと/聴くことに意識の多くを割いているせいか、感性がいささかナイーヴになっているのかもしれなくて、とある飲食店で客として来ていたオバサンに執拗に話しかけられて、ちょっとへこむ。というか悲惨な気持ちになる。別に、無視すればどうってことない話なのだけど、まあなんというか、こういう人がすべてを食い尽くすのだよな、と思い、一見して「あなたの味方ですよ」というフリをしてはいるけど、隠すことのできない品のなさというか、冗談も言えなそうな遊び心のなさというか、壊滅的にシリアスな(しかもあまりに軽薄な)その身振りを見ていて、なんともいたたまれない気持ちになるのであった。


この人にもまた職務というのがあって、社会的なものに組み込まれていて、ある意味ではそれを淡々と推敲しているだけなのである、という言い訳は可能だろう(要するにたまたま見かけた私を、彼女の仕事の顧客として狙ったわけである)。そして彼女の品のなさというのも、もしかしたら長年(かどうかは知らんけど)培われてきたその職業の中でのキャラクターなのかもしれなくて、とすると、彼女の顔に浮かぶ虚飾しきれない冷たさ、薄っぺらさというものは、彼女自身の罪とは言いきれないのかもしれない。しかし、人には責任があるのだ。彼女が薄っぺらな人間になったのは、彼女が、そうなっていくことに対して抵抗しなかったからであって、それはやはり彼女の責任である。そして、そこで踏んばって耐えていくとか、ちょっとした策を練るとか、できるかどうか。それがその人の倫理が問われる場面ではないだろうか。私たちはそんなに確固とした強い存在ではないから、いかようにも染められてしまうのである。




かつて強制収容所にはゾンダーコマンドという存在がいたという。これはユダヤ人の囚人の中から選抜して組織された部隊らしくて、死体の処理とか、金品など使えるものの収奪とか、消毒液をかけるさいの説得とかいう形で、ユダヤ人の囚人とナチスのあいだをつなぐ役割を果たしていたらしい。彼らもまた殺される運命にあった(任務につくことによってわずかに延命される)。だから彼らは必ずしも加害者ではなくて、被害者であるとも言える。純然たる加害者とも被害者ともいえず、搾取する側でもされる側でもなく、そのあいだに立たされる、というような状況は、ゾンダーコマンドにかぎらず(その殺戮に関する強度のレベルはともかくとして)我々のあいだにもあまねく存在しうることだろう。かのオバサンもまた、その意味ではゾンダーコマンド的存在であると言える。


ゾンダーコマンドには、ほぼ選択の余地はない。ナチスの命令に従って職務を遂行するか、逆らって殺されるかである。そして逆らって、みずからの純血を貫き通して死ぬということがあるとしたら、それはたしかに美しい死に様ではあるだろう。けれども抵抗とは、倫理とは、果たしてそのような美しい死を選ぶことだけだろうか? 最近、いろんな人と会って話をしていて、あ、この人好きだな、と思ったり、なにかしら惹かれるものを感じたりするのは、そのような場に立たされた時に、この人は何かをするだろう、せめてものささやかな抵抗として第三の道を選択するだろうという、その倫理性のようなものに触れる時である。




このエントリーで私が倫理という言葉を使ったのは、正しくない、というかふさわしくないかもしれない。倫理という言葉は使い古され、硬直化していて、あたかも道徳教育の産物であるかのように見なされていて、そのように誤解されてしまうかもしれないから。でも、私は、やっぱり、倫理というものは存在すると思うのだ。