ラストショット!


パヤパヤパヤパヤ、最後にもういちど〜


という感じでふわふわした大晦日、結局のところ部屋も頭も、大掃除もできず。越年で進行しているプロジェクトがいくつかあって継続審議中。でも明日だけは休みたいです。サッカー観てきますよ! ぽよーんって感じで、FC東京のいない寂しい天皇杯を……。


ところで29日のポナイトで伝説を作った(?)熊生さんなんですけど、30日は比較的キリっとしていらして、僕にとってとても重要な、本質的かつ直観的な話をしてくださいました。そのことが今、すごく気になっていて、それは批評、創作、編集、という三本柱に関わるところで、そこからもう一度「私」に跳ね返ってくるような問題だと思うんですけど。


以下、脳内垂れ流しの悪文ですが、最後の最後だし、もう今年は校正推敲といった作業をしたくないので(ほんとにいったいどれだけやりまくったことか……)、そのまま載せます。テンションすら一定ではなく、論理的に飛躍ありまくりなのはわかってますが、ご容赦を。




編集者という身体は、どこかで背面に、じわじわと後退していくようなメンタリティがある、と思ってはいるのだけどそれは勝手な思い込みかもしれない。と思ったのはポナイトの編集長座談会で観たものも、やっぱりそれとはまったく異なる身体たちだったわけだし、ではそこで逃げも隠れもせず、存在してる、存在して”しまった”、という時に、果たしてどのように生きながらえることが可能なのかということ、それとこう考えるのはさっきTattakaさんのブログで受けた応答に影響されてのことでもあるけれど、そこからどう生きていくのか、という方向に転換していくかということでもある。


しかし僕はいつもこのことを考えるとちょっと哀しくなるのだった。


どうして哀しくなるか、というところに、熊生さんが言ってたことに繋がるヒントがもしかしたらあるのかもしれないのだけど、それを探る手がかり、道筋を、僕はまだ知らない。ミニコミをつくるのがその方法なのか? といえば、それとも少し違う気がする。雑然とした方向にいくのと、クリアな方向にいくのと……でもそれもほんとは、二項対立ではなくて、僕自身の「私」がしっかりしていれば問題ないのではないか?


ポナイトでいつも心残りなのは、ひとりひとりの人とゆっくり話す時間がなくて、いつも話の途中で中座してしまって申し訳ないなと思うのだけど、それはああいう場だからいたしかたないとして、でもそういう話の途中で中座してしまうようなのが僕が持つ「私」の現在の身体なのだ、ということは認めざるをえない。それを一概に否定しようとは思わないが、足りない面があるのはたしかだ。


つまり必要なのは訓練(エクササイズ←熊生の言葉)ではないだろうか。


ダメな身体、を「私」にインストールすることで僕は2008年をなんとか乗り切った気がする。その極致がポナイトでの司会の身体だったというふうに今は思うのだけど、あと僕が衝撃を受けたのは福永さんの身体で、今まで電話やメールでのやりとりはあったもののお会いしてお話したのはポナイトが初めてで、たとえば福永さんが売り子に立つと、マジでエクス・ポTシャツとかが売れるのだった。そしてなぜ売れるのかということもなんとなくわかる。(たぶん買った人は、それが福永さんだということには気づいてなかったと思う)


話がとりとめもなくなってきた。さっきから大陽がまぶしくて、ちょっとカミュ的な気分になりつつある。あと昨日はワセブンシンポの質問の時に話せなかったことを直接東さんとも話せてよかったです。それと最後になるけれど、いくつか前のエントリーで佐々木敦の『「批評」とは何か?』について書いたのは、実は「貫通」というキータームについてものすごい長文を書いていて、でも書き終えたところで急にイヤになって最後のああいうわけわからない部分だけを残してあとはデリートしたのだった。僕にとって『「批評」とは何か?』は2008年のブック・オブ・ザ・イヤーです。




ひとまずこれで、考え続けることはあるが、2008年に言い残したことは何もなし。


よいお年を!