散歩する惑星


そういえばこないだロイ・アンダーソンの『散歩する惑星』(2000)を観て、うわー、なにこれって感じでした。CM作ってる人の映画とは到底思えない、というか、消費社会のマーケティング主義にまみれた日本の広告の考え方って、やっぱりどうかしてるんじゃないかしら、みたいなことが浮き彫りになるような体験。


CGを使わない、って点では、先日の『銀河ヒッチハイク・ガイド』のコンセプトにも近いものがある気がするんですけどね(たまたま続けて観たのでそう思うだけです)。私はべつにアナログ礼賛! ではないけれど、アナログ的なものが含んでいる不確定性とかノイズみたいなものは、やっぱり独特の味があるというか、面白いよなーってことは思います。『散歩する惑星』の、あのカウリスマキをさらにシュールにしたような世界観はちょっとデジタルでは表現しづらいのかも。それは紀伊国屋ホールでの、鴻上尚史さんをゲストに迎えた文化系トークラジオLifeのイベントでも話に出てた、「解像度」と「速度」が上がっているってこととも関係ある気がします。「解像度」と「速度」が上昇していく時に、そこをあえてクリアでない状態に、あえて緩んだ状態にしてみる。そういうのって、すぐにロハスとかノスタルジーとかって感じになりがちなんですけど、そーゆーイデオロギーを信奉するということではなく、もっとアグレッシブな戦略として、あえて退行する、あえて幼児返りしてみるって作戦は、けっこうアリなんじゃないでしょうか?


ちなみに兄はこの映画を観てほとんど泣くぐらいのショックを受けていました。今度の世界的な不況は、特定の世代に限定されるものではない、深刻かつ広範な打撃を多くの人に与えてしまうかもしれないけど、だからこそこういう不可解な(力のある)作品が生まれてくるという可能性はある。『散歩する惑星』におけるワンシーン・ワンカットの多くの場面においては、まず空間があってそこに何人かの人がいて、誰かがそこに入ってきて彼らは出会う、ところがその出会いはあまりにも空虚で何も生み出さない、つねにちぐはぐなことにしか繋がらない、それはしかし、その出会いによって安易に何か有意義なものが生まれてしまうよりも(例えば恋愛とかよりも)はるかに、ふだん私たちが「現実」だと考えている諸々の価値観や幻想に対して、決定的にクリティカルな一撃をくわらしうるのだ、そうです。



散歩する惑星 愛蔵版 [DVD]

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