クローン牛


ヤフーの記事に「クローン牛が食卓へ」っていう記事が載ってて、

体細胞クローン牛と豚については、死産率や生まれた直後の死亡率が高いことから、安全性が議論になっていた。専門家グループはクローン牛などの過去の研究を検証した結果、「6カ月を超えると従来の牛と同様に健常に発育する」と分析。食用に回される成長したクローンは「従来の牛や豚と差異のない健全性が認められる。肉質や乳成分、子孫についても差異は認められない」と結論づけた。(*ちなみに「専門家グループ」の座長は早川堯夫近畿大薬学総合研究所長←この名前は覚えておこう!)


ってことなんですけど、「クローン牛は安全です。でも我々は食べませんけどね」とか言ってそう、憶測だけど。もはやエラそうな学者の肩書きだけでは私たちは何ひとつ信用しないだろう。でも安い焼き肉屋とか牛丼屋とかに紛れ込んでたら、クローンだろうがなんだろうが私たち庶民は食べちゃうんだ(泣)。


にしても、クローンに対するこの嫌悪感ってなんなのかなー? インセスト・タブーとかと関係あるのかな? 兄にこの話をしても、小さい頃に金曜ロードショーで観た『ルパンVS複製人間』がいかに面白かったか、っつー話を滔々と語られるだけでまったく使いものにならず。


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で、ちょっとインセスト・タブーつまり近親相姦について私なりに調べてみたんですけど(って実はWikiを斜め読みしただけですけどー)、要するにはっきりとした禁忌の理由というものが普遍的にあるわけではないみたい。それって考えてみれば興味深いことで、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いにも明確な論理的なひとつの支配的な理由があるわけではないのだけど、あれも複数の考えられる説得材料があって、それらが総合して倫理なり知恵としてある特定の社会の中で共有されタブーとして機能してきた。


さてそう考えてみると、「クローンは危険だ」っていうのも明確な論拠があるというよりなんとなくいろんな理由の集合として心象的にタブーになってるっていうだけで、それに対して「クローンもオッケーですよ認めますよ」っていって「安全性」を楯にして突破を図っていくのは、実は論理的にはそう難しいことではなく、むしろどっちかというと政治家とか利益団体とかをいかに動かすかっていう、単なるネゴシエーションの問題になってしまう気がする。ジャーナリズムはほとんど壊滅状態だしね。


たしかに科学的な根拠は、近代化にあたっては大事なことだったのかもしれないし、そして私はべつに近代以前に戻れ!とか思ってるわけじゃまったくないけど、でもいわゆる「おばあちゃんの知恵」的になんとなくゆるやかに継承され守られていたものが、歯止めのきかない感じでどどどどどと崩れていくのではないかという危機感は、やっぱりあります。「ちょっとそれ危ないんじゃないの?」と言う人さえ今ではほとんどいなくなった。そういうことを言ったとしても、膨大な無数の声の中に埋もれてしまうだけな気がしてしまう。いっぽうで、一部の知識人がジャーナリストとして振る舞っていろんな物事に対して影響力をおよぼすってことがもはや機能しなくなったからといって、じゃあ私たちひとりひとりがあらゆるものごとを論理的に判断できるようになるかっていうとそれは無理で、全然民主主義を信奉する個人主義者みたいなことにはなりきれてないっていうか、だから裁判員制度とかいわれてもちょこっと興味はあるけど正直めんどいって気がする。


いま流行りの言葉でいうと、だからアーキテクチャーってことになるのかな、設計の問題に。ポスト民主主義としてのアーキテクチャー。それによって、「おばあちゃんの知恵」に代わるようなゆるやかな集合知というものを設計してくのは不可能ではないって気はするけど(私にはその設計の方法はさっぱりわからないけど)、でも、あらゆるものがデジタル化されていく中で、私たちが進んで設計図の住人になったとして、ではいったいどこへ向かおうとしているのかな? 人生、宇宙、そして万物の答え=42? あー、なんかむずかしいなあ。ぐるぐるでごめんなさい。ガラじゃないわ。




でも直観的にいうと、私としては、「わけのわからないもの」がもっと必要って気はする。そういえば年末のポナイトでも生西康典さんがそんなこと言ってたよね。設計されたものの外にある「わけのわからないもの」が、いろんなところで、白でも黒でもない「糊しろ」になるような気はします。