雲の上に抜ける


羽田に着いたのは、ちょうど読んでた『二〇〇二年のスロウ・ボート』で彼女が羽田空港から電話をかけてくるその瞬間だった。カンペキな符号。まあ偶然なんだけど。


彼は、東京から逃れることができない。けれど私たちは東京を脱出した、はずだ。私たちっていうのはもちろん私たち兄妹のこと。ちょうど飛行機の右翼にあたる席で、出発前にケータイ動画を撮ってた兄はスチュワーデス、じゃなかったフライトアテンダントさんに怒られる。ガラガラでどうせバレないし、こっそり撮っちゃおうか、と言う兄に、こら! 子供も乗ってるんだから! なんか間違って落ちたらどうすんの!と今度は私がたしなめる。子供の話をすると、たいてい兄は黙るんだよね。落ちねーよ、とか言ってたけど。


でも、やっぱこっそり撮っちゃえば良かったなー、と後悔するほどの絶景。もう何十回もこのルートの飛行機に乗ってるけど、これだけ見事に東京が見えたのは初めて、と兄。天候も幸いしたのだろう、空に雲の層がすぅーっと出来ていて、その上に「地平線」があり、そこから先は真っ青な世界が宇宙まで通じている。ただ富士山だけが、雲の海のうえにぽかりと浮かぶ。おお、これが天上か。下は下で、川筋も町の形もくっきりと見えて、湖、あれは、山中湖だったり、浜名湖だったりするのだろうか、それらが、見えた。ほとんど神の視点だと思った。


動画に収められないのならば、せめてこの目に焼き付けよう、と思ってずっと見てた。私も兄もたぶん一言も喋らなかったと思う。ただ目の前に広がっているものを見ていた。それらは遠ざかり、やがて近づいてくる。驚異的な体験。