パンドラの匣

五反田イマジカで、秋公開の映画『パンドラの匣』(冨永昌敬監督)の0号試写を拝見する幸運に恵まれる。原作である、太宰治の同名小説にかぎりないオマージュを捧げつつも、新解釈。とても不思議な、なんとも奇妙な爽快感に包まれる。



これは「わからない」映画である。
そしてその「わからなさ」を楽しませるたくらみに満ちている。
なんという遊び心じゃろか!
鵺(ぬえ)のような、ってこういうことを言うんだぜ!
そして冨永さん、あんたカッコいいぜ!☆ ←と言いたい気分




菊地成孔の音楽(世界観の構築に多大なる貢献)、川上未映子の初主演(素晴らしい存在感!)、新鋭・染谷将太(大胆不敵な幼さ)、仲里依紗(可愛すぎ)、あるいは窪塚洋介の復活(乾いた妖艶)、そして脇を固めるふかわりょう(笑)、杉山彦々(この人めっちゃ好き)、ほとんど少女のままオトナになったような洞口依子(圧巻!)……などなどなど、タレントが豊富だからこそ入り口は無数にあって、しかししかし、その行き着く先は「わからない」。


これはもはや「映画」という枠内には収まりきらないんじゃないかな、という気にだんだんなってきた。それは鮮やかにスクリーンという枠を飛び越えてみせる瀬田なつきの『あとのまつり』を観て感じたものにも近くって、両作品を観てると、ゴダールってこれまで「映画」の最大の信奉者であり、イデオローグであり、教祖である、と目されてきたけど、実際のところは「映画」に対する(いい意味で)史上最大の裏切り者にすぎないのじゃないか、と思えてくる。きっと裏切りの先にこそ未来はあるのだ。


なんかもう、新しい時代が来てるんじゃないかなー、と目黒川沿いを歩いて桜の残滓をみながら思う。叙情です。単なる予感ですけど。




どうもこのブログは、時たまシネフィル青年淑女や批評家志望の人、あるいは本物の批評家が読んでくださっているらしいので、傲岸不遜にもあえて挑戦状としてここに記しておきますが、ぜひ秋口にはこの『パンドラの匣』を観て、批評を書いてほしいと思います。映画作家がここまでの臂力をすでに見せつけている以上、批評もそこに随走するか、あるいはその先をリードするか、そんくらいのものでないと意味がないと思うので、既存の枠に当てはめるようなつまんない解釈で、失望させないでください。この「わからなさ」をぜひとも捉えてみせてほしいです。
(で、ほんとにわかんなかったら潔く降参していただきたい。)




歴史、批評、創作


んで、そのあと、五反田の賢策さんの事務所にお邪魔して、途中でかなちんとも合流して、雑誌りたーんずの最終打ち合わせ。めっちゃ時間的余裕ないのに、歴史ヲタかなちんの超どーでもいい(が、とてもクリティカルな、つまり真の意味で批評的な)話に巻き込まれる。


だからつまり、批評っていうのはそもそも挑戦をもってなされる「行為(action)」を指すのであって、なんか批評っぽくこねくりまわした文章を紙とかウェブとかに書き付ける、ってことでは全然ないんだぜってことを、去年の後半くらいからずっと考えてきたけど、今となってはそれはほとんど確信に近いです。


そして創作もまた、「作品」である以上に、それを作るという「行為(action)」抜きには語り得ないものであり、だからこそそれは、とりもなおさず世界に対するなんらかの一撃(復讐/愛)になってしまうのだ、という気がします。


少なくとも、そうありうるでしょ?