14歳の国民的顛末


髪を切ってサッパリしたら、髭を剃りたくなった。そしたら眼鏡もはずしたくなった。つまり僕は14歳の国民として生まれ変わったのだった。もちろんそんなの妄言である。半ば気が狂いかけていることはわかっている。だがそれも明日までだ。舞監のさめちゃんが、「ちからさんが猫と一緒に死者の国に旅立っていく夢を見た」と数日前に言っていて、以来私は、猫の存在に気をつけている。


猫といえば篠田千明の『アントン、猫、クリ』が終わってしまった。前に書いたようにやっぱりこの作品は巫女の儀式のようだなと思った。中村真生さんの「雨、雨、雨、、、!」がもう観られないと思うと寂しい。ラストのところで真生さんがちょっと転んで、「あっ」って言って、そこからの盛り上がりがすごかった。一気にあの空間にさまざまな音や言葉が満ちていくのが快感だった。雑誌「りたーんず」のインタビューでもたしか本人が語っていたように、篠田がやろうとしていることは文化人類学の一環である、とも言える。それは旧来の「学問」の範疇ではないだろうし、いわゆる「サンプリング」とも少し異なるような。いうなれば数学の「微分」にもっとも近いのかもしれない、彼女がやろうとしていることは。文字通り世界に旅立つ彼女は何を見るのだろう? たぶん彼女は、これからしばらく僕とはまったく違うものを見るのだろうし、それでいい、と思う。


杉原邦生演出の『14歳の国』が終わってしまったのはショックだった。まだまだ観たいと思った。ラストのそれを、僕は神里氏と共に立ち見でみた。たまたま隣の席に、宮沢章夫さんがいた。さすがにちょっと気になった。この杉原版『14歳の国』は、最初から俳優たちの姿が生々しく感じられて、それは作品として未完成だからだと最初は思っていたのだけど、そうではなく、そのような演出だったのだと、今では思っている。戯曲の中の、意味のある部分、ふくらみのある部分がそぎ落とされていった結果、残された、きわめて平板な世界を生きた彼らは、そこに存在しているだけで生々しい(物語の住人になることを許されないから)。終演時、神里氏は涙を流していた。即興で、宮沢さんがアフタートークを引き受けてくださった。それを引き受けてくれる心意気も素晴らしかったし、それを可能にするこまばアゴラ劇場という箱もすごいと思った。ただひとつ、トークでは「時間」がテーマになって、杉原くんが「待てない」演出家であるような話の流れになったけど、むしろ実際には逆で、これほど「待つ」ことができる人はいないと思う。そしてそれに耐えた役者さんたちもすごい。彼ら14歳の国の兵士たちに敬意を表して、ここにお名前を列記しておきたい。真田真、菅原直樹、山崎皓司(快快)、鈴木克昌、小畑克典(青年団) 。小畑さんは16年ぶりの役者だという。16年前、彼は26歳だった。彼もまた26歳だったのだ。


14歳の国民としてその呪いに取り込まれてしまった神里氏だが、彼が作・演した『グァラニー 〜時間がいっぱい』も終わってしまった。今日また観て、やはり不思議な時間感覚を持った作品だなと思った。長い、長すぎる、と思うシーンばかりなのに、それが過ぎ去ってしまうと、その長さがまったくもって妥当なものに思われる。今日トークで、岸井さんの口からドストエフスキーの名前が出て、たしかに長口舌はドストエフスキーのそれにも通じるところがあるのかもしれないが、むしろ時間感覚的にはトルストイとかのほうが近いのかもしれない。いやそれも違うな。トルストイは、僕はあまりにもまどろっこしくてついていけないところがあるのだけど、『グァラニー〜』の「時間がいっぱい」感は、ゆったりしたとか、まどろっこしいとかそんなんじゃなくて、豊饒に広がっていくものを感じる。小さなところから、時間とか、空間とかが、爆発とかではなくて、広がっていく。それは長口舌の爆発性とはむしろ対局にあるから不思議だ。今日も高須賀千江子さんはすごかった。これだけ美しくて気持ち悪いという人もなかなかいない。豚の話はしばらく夢に出てきそうである。もう心の中で拍手絶賛だった。今、高須賀さんの名前を出したけども、この作品に登場する役者さんたちはどの人も好きすぎて客観的な判断とかはできませんのであしからず、と言っておきます。それはともかく、これはぜひどこかで再演してほしい。


中屋敷法仁の『学芸会レーベル』も終わった。武谷公雄さんがとても素晴らしくて、というのも、武谷さんが時々とる笑いの質というのは、舞台の上で、「りゅうのすけくん」としてではなく武谷さんとして現れることで発生するものなのだが(こけたり、噛んだり)、終演後に武谷さんと話したところによると、実は中屋敷はそれも計算に入れていたっぽい、、、。おそるべし天才中屋敷。ともかく武谷さんの存在によって、「学芸会レーベル」の世界と客席との距離感が複層的になっていた。いやー。これをもう観られないのは残念ですわ。でもそれぞれの役者さんの次回作が楽しみに思える、というのは、それだけ中屋敷くんが彼ら個々のポテンシャルを引き出したということじゃないか、と思っている。クラスの全員シンデレラ、みたいな現在の学芸会状況を嘆く、みたいなのが今回の動機としてあったっぽいのだけど、それからするとこの「学芸会レーベル」は、どんな脇役にも命を与えた、学芸会の真にあるべき姿を実現したものでもあると思った。個性とは何か? そして自由とは、何か?




なんかしかめっつらしく書いてきて、自分でもどこまで本気で考えていることなのか、単に勢いで書いてるだけなのか、よくわからなくなっているが、でも適当に書いているわけではない、ただ、PCのバッテリーの充電がキレそうで、まあ普通に充電すればいいのだけど、充電器をとりにいった瞬間にもう書く気が失せて、ぱたんと閉じてしまうだろう、というのもわかっていて、なにしろ明日は最終日だし、やることいろいろあるし、打ち上げもあるしできっと書いたりできないから、書き残せることは今のうちに残しておこうと思って、書いてみた。電池寿命もそろそろだ。予備電源に入った。だから今日のところは寝ます。そして明日最後の日を、気持ち良く迎えて、終わろうと思う。楽日とは、語源は知らないけど、楽しい日であるべきなのだ。最後まで、怪我や病気などありませんように!