目の前のことから、ちょっとずつ世界へ


ヒアホンの初イベント「楽しい音楽」が終わってめっちゃ満足し、終電で家に帰って文化系トークラジオLifeの「現代の現代思想」を聴いた。ゲスト東浩紀。東さんの力強い喋りは例によって凄まじい。あの饒舌はラブレーとかそのくらいのレベルに匹敵するんじゃないかという気がする。


ちなみに来月はマイクロソフトが番組のスポンサーになるらしく、「Windows Live」のことが紹介されていて、それでskydriveがけっこうデータ保存に使えることを思い出した。こう書くと、いかにも広告戦略にしてやられてる消費者っぽいですが。(←ぽい、じゃなくて完全にそう……でも実際役に立っている。←こうやってあられもなく書くのは、Lifeリスナーとしての忠誠心を表明したものであると長谷川プロデューサーにはぜひ認識していただきたい(笑)。←って書くと台無しだよ!←以下自己言及の無限回廊



全体意志と一般意志


さてLifeは半分寝そうになりながら聴いたので覚えてないところもあるけど、トークはいろいろ面白いこと含みだった気がする。とりわけ、本編の最後のほうで話題になったことで、「(個々人の特殊な意志の総和としての)全体意志がmixiで、(個別の私的な思惑を超えた)一般意志がgoogle」と、東さんがルソーの用語を援用しながら語った比喩が印象的だった。


つまりそこでの東浩紀の議論はたぶん、「国会の政治もmixiも、私的利害のつぶやき合いという意味では同じであるのだが、そうした個々の私的利害を超えたところに生起する集合知google的なるものこそが、今は公共性を作ったりするんじゃないの」という提起だったのだと思う(たぶん。意訳ですよ)。これは『動物化するポストモダン』以降、工学的な、あるいは運命論的な言動を続けてきた東さんらしい考えだと思うし、おそらくその継承者としては『アーキテクチャの生態系』の濱野智史がいる(たぶん)。それに対して、私的利害が絡もうがどうしようが、国会で決められたことは実際に力を持ちうるのだから、そこに積極的にコミットして改変していく必要がある、と考えるのが宮台真司だったりするのかな(たぶん)……


と、(たぶん)を重ねて大ざっぱに現在の「公共性」をめぐる言論状況をマッピングしたところであんまり意味はないのだけど、「理性による討議の結果として政治が力を行使する」というハーバーマス以降主流であったと思われる考え方、すなわち「民主主義と公共性の蜜月」のようなものに対して、それとは別の新しい公共性の考え方が登場しているのは確実だと思う。つまりインターネット以後(ウェブ2.0以後?)の公共性は、民主主義的に個々人が理性を尽くした討議を経た結果、総意として得られたもの……ではなく、ウェブ空間という環境の中でほぼ自動的に生成されてくるのだと。いかにも思想史的なことを真似た物言いをすれば、新たなリヴァイアサン*1がこのネットの海に誕生していることになる。



で、どうすんの「私」


さて、そのように昨夜の話を自分なりにかなり身勝手かつ俯瞰的にまとめてみたところで、まあそうかもなー、と思いつつ、一方で釈然としないものが残るのはなぜか? というのは、私は2ちゃんねるをまったく見ない人間だし、ニコニコ動画は面白かったら観るけど別に書き込みとかは全然しない人間だからじゃなかろうか、と仮説をたててみる。つまり私は、2ちゃんねるニコニコ動画の1住人であること、すなわちネット王国の1住人であるということにまったくもって満足できないし、そのような趣味も身体感覚も持ち合わせていない人間なのである。そうした人間はこの「はてな」にさえ少々いるだろうし、狭い東京にだってそれなりに、そして広い世界にはごまんといるだろう。*2


そうした人間が、さてどうやって現在や未来を生きていくかな、ということを考えて行動する時に、「ウェブ空間でほぼ自動的に生成される一般意志こそが公共性なのだ、だからgoogleという王に任せておけばよいのだ」という考えにいちおう納得はできたとして、うーむしかしじゃあこの「私」はどのようなプレーヤーとしてその「google的な公共性=絶対王政」と関わって存在しうるんじゃろうかね、ということはいやでも考えざるをえない(あるいは感知せざるをえない)し、学者でもないのだからどう実践するのかが重要である。その求める答えが、おそらく私的なものと公共的なもののあいだにあるということはなんとなくわかるのだが、それをどう結びつけてよいものかわからなくて、みんなそれなりに格闘しているのだと思う。*3


でもってそういう時に、学者やジャーナリストの真似事をして社会を俯瞰してあれこれ論じることで、なんとかメタ視点としての高慢な「私」を獲得してご満悦にひたる、あわよくばブロガーとしての名声を獲得する……というようなことにはすでにまったくもってうんざりし、あーもうやめたと、そういう構え(態度)はやめましたと宣言して潔い”撤退”を選択したらどうなるだろうか。


そこに残るのは、「私」がいて、「私」に近しい人々や目に見え手に触れることのできる小さな世界があって、そしてその先に、地球とか宇宙といったレベルでの大きな世界がどうやら現実に存在しているらしいという認識である。*4これは明らかに古典的な哲学思想の系譜に連なる問題だが、先頃発売された雑誌「りたーんず」で、標語として「目の前のことから、ちょっとずつ世界へ」*5を掲げたのも、私としてはそういう考えがあってのことだった。まあでも、正直にいえばこういうのは最初から考えていたわけではなくて今これを書きながら整理されつつあるのであって、感覚的に標語のほうが先に出てきたんですけどね。まあ「今」を生きていればそういうふうに感覚が論理を先取りすることは往々にしてある。


そして今またこれを書きながら「あっ」と思い起こしたのは、昨夜のヒアホンのイベントでついにお目にかかったとあるバンド*6のことだった。私は彼らの音楽に絶大なる衝撃を受けたのだが……それについてはまた機会があればあらためてということで。




あー、柄にもなく注釈記法とか使っちまった……。

*1:うわ、こういうのきっと誰かがもう言ってるだろうな、と思ってググッてみたらやっぱりいた。学生さんが書いてたり……ということはなんかもう全然余裕で言われまくってそうかも。し実際どこかで聴いたり読んだりしてるかもしれない、っていうかLifeでも誰かが言ってたような……。もちろん元ネタはホッブズです。つまりgoogle的なるものによる絶対王政

*2:奇しくも昨日のLifeで東さんが言ってたように、論者の趣味が結局のところ世界観を恣意的に結びつけて構築している、という面はあると思う。だから私の見解からすると、2ちゃんねるニコニコ動画が社会を動かしているのではなく、2ちゃんねるニコニコ動画が好きな人たちがたまたま社会学的な論者になっているのであり、その結果としてそのような言説が量産されるので、実際に社会に対してそれなりに影響力を持つ、ということにすぎないと思う。

*3:たぶん東さんやチャーリーもとっくにそういうことは考えて彼らなりの見解を持っているはずだ。というかLifeはずっとそういうことを結論の出ないままに話し合ってきた番組だと思うので。だから昨日のLifeではできればそのへんの話を聴きたかったのだけどポッドキャストで聴ける外伝のほうでは話されたりしているのかなー?

*4:これは一時期「セカイ系」と揶揄されたものと構造が似ているし、実際そういう「キミとボク」のふたりだけのセカイに閉じていく危険性も大いにあるのだが、けれども近しい人々との関係や、目に見え手に触れることのできる世界を丁寧に生きていく、ということをすれば、それは決して(最近さんざんこの言葉を聞いていささかうんざりしているが)「内輪」に閉ざされて終わるようなことにはならないと思う。

*5:これはことさら非政治的であるとか、社会を無視しているとかいったことではない、とここで明言しておきます。もしもそう見えているとしたら、それはあえて距離をとっているだけのことにすぎません。よく大のオトナが、「近頃の若いやつは……」的な物言いで「社会性が欠けている云々」、ということを言うけれど、そういう型どおりの台詞を言わされてしまうほど精神的にも知性的にも弱い人に比べれば、今の若い人のほうがよっぽど社会的な経験値は高いと思う。なにしろ不況と不安定な社会の中でめっちゃ揉まれているからね。

*6:なんか今の時点でヘンに文脈を作っちゃうのもどうかと思うのでとりあえずこのエントリーでは名前は伏せます。昨日2番目に登場したバンドです……と書けばほんとに聴きたい人はどうにかすればたどりつけるはず。まあたぶん彼らについてはすぐ別エントリーで言及するでしょうけどね。