踊れない/歌えない身体


よさこい祭り、一番楽しかったのは沿道の観客だった。たぶん地元の人たちばっかじゃなくて観光客も多数交じってると思う。ほんと年齢層が幅広くて、例えば演劇で、あるいはダンスで、ライブで、こうした観客を呼び集めることは(不可能ではないが)困難だろうなと思った。なにしろここでは、おばあちゃんがヒップホップ調の踊りをふつうに聴いてたりするわけだから。


踊り手に関して。精鋭を揃えていて、振り付けも凝っていて、うまいなー、と思うチームもたくさんあったけど、個人的にはあんまりそっちには興味なかった。基本的に「うまい」ものに興味ないのかも。どちらかというと、踊れない身体のほうが興味深い。でもそれが祭りという祝祭空間の中で変化してしまう。あるいは「何か」が露見する。そう考えると、車椅子やベビーカーで参加してる人もちらほらいたけど、全然遜色ないように思えた。そして踊り子の群れの中には、時々ハッとさせられる人がいたりする。あれはなんだろう? 特にうまいとかじゃないのに、なぜか目を惹くという。あと人数の多いチームのほうが見栄えはいいのだけど、田舎のほうのチームで人数少ない中でやってたりするとつい応援してしまったりもする。まあそれは単なる判官贔屓かもしれないけど、そういうチームは「うまさ」で賞を獲れないわけだから、むしろ清々しく踊っている感じもあって。




ところで高知には「歌って走ってキャラバンバン」というノド自慢の名物番組があって、県内各地を一夏かけてグルグル回っていくのだが、そこにはめっちゃ地元の人が歌い手として参加する。僕はなぜかこの番組が好きなのだが(といっても近年は夏に高知にいなかったので観られなかったが)その理由も上で書いたことに似ている気がした。つまり、大抵の歌い手は、テレビで観たことの真似事をする。好きな歌手の歌い方を真似たり、流行りのギャグをやってみたり。もうほんとに面白いように模倣してしまう。そして実際その中に、けっこう歌がうまい人(うまく模倣できる人)もいる。でもこの番組のミソは、そうやって真似しようとして、でも失敗してしまう身体にこそあると思う。あるいはどこかで、えいやと開き直って真似をするのを断念してしまうような身体。あるいはそうした意図がないにしても、そこに突然ニュッと現れるものがあって、それをカメラが捉えてしまう。これがすごい。この瞬間を見逃したくないから、つい毎日のように観てしまう。その瞬間、そこに映っているなんらかの才能を「個性」と呼んでしまうのは簡単だけど、たぶんそうではない。別に普段から、その人が個性的な人生を送っていて、何か突出したものを持っているのだとも思われない。番組があって、人が集まって、カメラが入って、そこで突然意図せざるものとして発生してしまう瞬間。その刹那の「何か」。


ちなみにこの番組はいわゆるドキュメンタリーではないし、ドキュメンタリーであることを意図してもいないと思う。だから、そういう「何か」を狙い澄まして録ってやろう、という作為的な意図も番組側には感じられない。基本的には、町おこし村おこしとか、そういう理念に基づくものじゃないかと思う。でもカメラには様々なものが映ってしまうし、この番組の最大の良いところは、そうした「映ってしまったもの」を排除したり、ことさら「ネタ」として取り上げようともしないところにある。たぶん、どちらの方向に舵を切っても死んでしまうであろう「何か」がそのまま転がっている。それをどう感受するかは、テレビのこちら側にいる我々に委ねられている。


今日観た安芸大会(安芸は「あき」と読み、高知県東部にある)では、例えば最後の歌い手が歌っているそのステージの陰で、たぶん友達であろう女の子たちが最初は歌にあわせて軽く踊っていて、それをカメラがたまたま捉えていたのだが、一度歌い手のアップになった後、ふたたびカメラがその女の子たちを移すと、ひとりは応援しながら相変わらず一緒になって歌っているのだが、もうひとりの女の子はすでに歌に興味を失って自分のケータイをピコピコいじっている。でもそれも全部映しちゃうみたいな。あるいは、豪快な歌い方でキャラバン賞(会場を一番盛り上げた人に贈られる賞)を獲った小さな女の子が、受賞のコメントで意外とフツウに「嬉しかったです」みたいなことを殊勝に言って、それでうろたえたアナウンサーが「意外と冷静ですね」と言うと、いきなりその女の子は何の前触れもなく会場にいるおばあちゃんに弾けるような笑顔で何か大声で叫んで、おばあちゃんもそれに応えてなんか旗を振って元気よく喜んでいるのだが、その女の子の弾けた瞬間の言葉は(それこそが肝心なはずなのに)マイクが入ってなくてテレビでは聞こえない(笑)、とか。