ブログで批評の可能性


ああ、なんということだ。かるくネットを巡回してみたつもりが、いろいろ考える羽目になってしまった。



以下はブログで批評(と呼びうるもの)を書くってことに関して、まあどっから「批評」なんだ、という話をとりあえず置いたまま少し先走って書いてみますが、まず「物語」にせよ「方法論」にせよ、それを構造として取り出して批評する、ということからは個人的には距離をとりたいと思っています。というのは、ゼロ年代においてすでにそれはかなりの成熟を果たしてしまって、ブログとかでもそうした言説は十二分に流通しているし、観客の側も、そうやって観ることに慣れてしまっているけど、あんま豊かに感じないんですよね、読みとして。やっぱりどうしても矮小化してしまう感がいなめない。ではどうするかというと、あえて構造はうっちゃっておいて、「その場で起きていることに、可能なかぎり寄り添っていく」という戦略をぼくとしてはとりたい。


もちろん作品の細部を観るってことも基本としてあるけど、ある意味おっきく、公演とかプロジェクトまるごと、何が起きてるか捉えるってこともあるし。そのためには、現場に入っていく、ということも時には必要ではないかと思う。というのは、はたしてその「作品」だけを観る、ということで、そこで起きていることを捉えきれるだろうか? もちろん「作品」こそが大事だとぼくは思ってますが、それを前提としてうえでの話です。例えばある公演に関して、演劇通と呼ばれそうな人たちこそが、なまじ「情報」を知ってるからこそ、時にはかなり決定的な誤解をするという場面があったりする。最近もそうでした。それは、まったく小劇場界隈において誰が有名で何が起きてるのかなんて知らない人はもちろん、逆に完全にインサイドにいる人間やそこと繋がりを持って仕事してる人たちであったとしても、そうした誤解を持ちようがないんですけど、でも「なまじ知ってる」からこそ誤解して「読む」ことをしちゃう。その「なまじ知ってる」ことの悲劇というのが、今のネット論壇(?)には溢れてると思うんです。その中途半端な立ち位置ゆえにというか。


もちろん、批評の自立性を、と考えて現場と距離をとるのはアリだと思いますが、「現場からあえて離れてる」ってことを武器にするのでないならば、批評する側の人も、もっと現場に寄り添ってもいいんじゃないかということは、けっこう常々思っています。それは別に、演劇やってる人と仲良くなって飲めばいい、ということを意味してるわけじゃ全然ないですけど。(ぼくは可能なら飲みたい派です。それも未知との遭遇だし楽しいから。結構人見知りだけど)


ただ、何かを観て、それを家に帰ってブログに書く、というこの行為について、その身体感覚みたいなものについて、もう一回ちゃんと誰かと話をしてみたい。そこでの失敗について。いっこいっこの失敗がただちに悪いとは思わないけど(ぼくも失敗だらけなので)、全体として失敗つづきだとしたら、いわゆる劇評ブログというものに、あるいはブロガーという存在に、あんま未来はないわけで。まあ今は過渡期だと思いますけどね。でも何か批判的なことを書いて、作り手側の神経を悩ませる、、、ということ以上の何かをブリッジすることができなかったら、それは批評になってない、ってぼくは思うんですよね。そんで結局、ネットにはつぶやきだけが残る。あと「情報」ですね。まあそれが望まれているのかもしれないけど、少なくとも作り手に対してはあんまいい影響を与えない気がします。


よく懐古的に言われる話ですが、かつては、批評的な文章を書いていた人は、よくもわるくもプロなわけですよね。別にそれが良いってぼくはまったく思ってないですし、時代というかアーキテクチャ(?)の変化は不可避なんでしょうけど、お金がどれだけ発生するかは定かでないとしても、どんなにザルであっても編集者のチェックはいちおう通るし、媒体と継続的に関わっていく以上、無責任なことは書けないから裏もとるし、いろいろ知るためには、そこで実際につくっている、作家とか制作サイドとの継続的な関係の構築が欠かせないわけです。仮に毒舌で知られる人であっても実はそうです。業界的なパーティや飲み会や人間関係から離れて距離をとるということはあっても、どこかには作り手との細いパイプがあるし、擁護する対象となる作家や作品が現れた時には、そことずるずるべったりにならないように気をつけながらもその人や作品と(距離のある)関係を持ち、あわよくば、時にはその作家に対してなんらかの刺激を与えようということも、批評家であれば考えるんじゃないか、と思うんですけど……。それがたとえば、小説なり、映画なり、演劇なり、音楽なりってことに貢献していく、いわば、批評家(レビュアー)なりの愛なんじゃないか、って思うんですけど。


でもいっぽう、ネットでブログを書く、というモードは、まずその作家が読むということに無自覚的であるか、意識していたとしても、そことの関係性が生じているという感覚があまりに乏しすぎる気がします。だからか、無闇にエラそうになる。それはべつに、友達になれってことじゃ全然なくて。友達だけが人間関係じゃないわけだから。なんかもっと、ぴりぴりした関係。「あ、あいついるな」みたいな関係というか。そういう関係性も生じていると思うんですよ、つねに。でも、家に帰ってブログに書く、という行為の中に、その関係性は見えない気がする。単純な話、不満があったら、その演出家なりなんなりに直接言う、って手もあるわけですよね、劇評の場合。でもそれをしないのはなぜなのか? こわいからか。話しかけたくないからか。もっと多くの人に訴えたいからか? そこには「なんでブログという、公開日記のようなものを人は書くのだろう?」という問い、すなわちインターネット登場とともに出現したが、いまだに誰も納得のいく答えを導き出せていない問いを、考えてみなくちゃいけないのかもしれません。でもこれは、ほんと答えでないよなー、と思う。だからせめてこう、こそこそ帰って、カタカタ書きました、という後ろめたい身体性からは遠ざかりたい。(その後ろめたい身体もある意味ちょっとキュートですけど)




なんでそういうことを考えるかっていうと、言葉はやっぱり負けてるってつねづね思うんですよ。目の前で起きてることの圧倒的なリアリティ、みたいなものに。それを超えたいって思うんですよね。それぼくだけですかね。ばかですかね。なんか、「情報」だけの世界にもう飽き飽きしちゃってるんですよね。いやたしかに、全然足りてませんよ、情報は。もっと固有名詞の溢れる渦! みたいになってもらって全然いいんですけど。でもなんつーかなー。


そうだ、つまり、批評なりレビューなり、なんと呼んでもいいんですけど、そういう立場で書くってことは、立場が宙づりなわけですよね。それは中途半端であるってことも含んじゃうんですけど、でも宙づり、であることは必ずしも悪いことではなくて、そこでしか書けないものがあるはずで、面白いと思うから。なんかその宙づり感をもっと楽しんでる感じのレビューとかがあったらいいなって思います。以上です。



あー、いかん、これ夜に書いちゃったよ。夜にはなるべく書かないようにしているのだが。つい逃避でネットを見たのがいけない。でも書き始めたらどうやら結構重要な問題を含んでいるらしい、ということがわかりました。さていよいよマジでしばらくブログ書くのやめるかも。