CASTAYA project


昨夜CASTAYA project "Are You Experienced?"の4日目を観にいきました。観劇直後は混乱していて、とにかく飲まなきゃ、と思って酔ったままメールボックスをひらいて、たまたま届いてた友達のメールに興奮のあまりCASTAYAのことを書きつけて返して、それで眠って……よく寝た。悪魔と戦う夢をみた(笑)。しかし一夜明けてなお、この興奮はなんだ? 誰かそのへんにいる人をつかまえて、「昨日こんな凄いものを観たんですよ!」と熱く語りかけたい気分。


正直、最初はあんまり感心しなかったのでした。役者さんはすごく良かったと思いますけど、演出として、ああいう形で「演劇」をメタに外部から捉えることをやって、観客に考えさせるというか、居心地をわるくさせる、つまり「演劇」そのものを問う、みたいなことをしても、「そこはほら、あのCASTAYAさんだからね」とある程度予想されてしまうだろうと。なにしろCASTAYAの名前以外、事前情報ほぼゼロで観に来る人は相当演劇耐性高いだろうし、なによりかつてリトルモアの「CASTAYA」で何があったかってこともおそらく「情報」として知っているだろうから、結果「また変なの観たよー、まあ奇抜だったね」とネタにされてしまうだけではないかと。そんなこと思いながら観てたんですけど……。


しかし男(?)が出てきてからの1時間半? 2時間? は、ただひたすら圧倒されてしまった。全然これ「外部」とかじゃない、むしろ「演劇」ど真ん中直球のどストライクじゃないですか。極北にむかったつもりがグルッと回って一周して足下に「演劇」があった、というような、灯台もと暗し。いったいこの時間はなんなんだ、観客が怒り出すんじゃないか、と恐れていたのは最初のうちだけで。別に強制されてもいない。ドアはパーンと開け放たれている。いつでも出ていってかまわないのだ。笑っている人がいた。喋っている人がいた。イライラしている人がいた。でもパラパラと人も消え、やがて静かになって、誰も何も言わなくなった。俳優が生唾を呑み込む音が聞こえるようだった。喉仏が動いた。




無…………はしかしおとずれない。秋の虫の音がドアから入ってくる。音は自由に出入りしていた。時おりクルマが通り過ぎていった。エレベーターが動いた。会場の外で人の話し声が聞こえる。シャバだ。あそこにはシャバがある。ここは牢屋のようだと思った。今この時間に、どこかの牢獄にいる哀れな人間のことを考えた。突然、何かがじわりと満ちてきて、拍手したい衝動に駆られた。ところが、ここで潔く帰ろう、負けましたよCASTAYAさん、ふっ、あんたは凄かった、と思ったその瞬間、前の席の人が本当に拍手をして帰るとは、なんというシンクロニシティ。一瞬驚いて続くことができず、結果席を立つタイミングを逸したので、これはもう最後まで見届けるしかないと腹を決めて居座ることにした。でも、このあと何が起きるのか、べつに見たいわけじゃない。結末のようなものは、もはやある意味どうでもいいんだ。これはもう小さい頃よくやった、にらめっこのようなものかもしれない。とにかくこの時間に付き合ってみよう。意味は特にない、きっと、この時間自体もう二度と経験できないものだから。それだけ。開演前にトイレに行っておいて本当によかった、さあ、持久戦だ。終わらない夜はない。水や食糧なしで人は生きていけないし、よもや超人や仙人が立っているわけでもない。目の前の俳優(?)はこの夏、キラリ☆ふじみで子供たち相手にワークショップをしていたはずだし。そういうことはブログやなんかで「情報」として知ってはいた、知りすぎていた、たとえ実際にはその姿を観ていなくても。そういう時代だ。でも我々は「情報」である前に物質で、生きてる以上は具体的な制約があり、たとえば社会の仕組みとしてもおそらく23時にはアゴラ劇場完全撤収だろうし、スタッフだって終電までには帰りたいはずだから、やっぱりいつか終わるのだ、この時間は。最悪のケースとして、仮に朝まで劇場の使用許可をとっていたとしても、数日後にはこの同じ場所で次の劇団が別の公演を打つはずだ。いつか終わる。いつか朽ち果てる。観ていると、直立不動の俳優も、意識が集中したり退いていったりしている。一見何も変わらないように見えても、ちゃんと呼吸はしている、まばたきする、肋骨が動いている、生きているのだ、目の前にいるのだ、まるで殉教者じゃないか! と思う。ゴルゴタの丘に磔にされても、弾劾裁判にかけられても、魔女狩りに遭っても、この人はこうやって死ぬにちがいない。なんのために? といえばそれはもちろん演劇のために。この人は今、設定として性別もあやふやなわけだが、年齢だって不詳のように見えた。ふつうに若々しく美しい青年のようだが、子供っぽくもあるし、あるいは10000年くらい生きているのかも。やべえな、10000年って。そうした存在、俳優であり、演出家であり、劇作家であり、そしてひとりの観客でもあるその存在は、何を見つめているか? そしてぼくを含む観客たちは何を? つーか、なんで生まれてきてしまったんだろう、こんなへんな生き物がいる世界に。またもや時間が過ぎていく。……過ぎていく。


隣の席にはもう誰もいない。




視界の隅に映っている誰かが、腕時計をちらとみた。いったい今何時なんだろう。お腹がきゅう、と鳴った。喉が渇いてきた。目の前にいるこの役者、人間、あるいは物体は、相変わらず2つの足で舞台に立っていた。そのまなざしは、ほとんど愛……というか愛以外の何物でもないと気づいて、ちょっと泣きそうになる。


演劇LOVE、という言葉が意識のなかで明滅する。


愛という言葉は便利だし、時には安っぽくもあるけど、その言葉でしか言い表せないこともごく稀にだがあり、この時間がまさにそうだと思えた。正直、ぼくはこの文章をまるで、昨日あの場でそう考えていたかのように捏造して書いているが、実際にはどんな気持ちで観ていたかというと、たぶんこの通りではない。確証は持てないが、ただ圧倒されて言葉を失って、目の前にあるものが美しいと思って打たれただけで、しかし思念はめぐるから、それを結実させたり、なぎはらったりしながら、ひたすら時間に寄り添っていく。そういった一連のことすべて、その時間のすべてを、愛という言葉でかろうじて繋ぎ止めていた。愛という言葉が気恥ずかしければ、もちろんあの「LOVE」という言葉でかまわないだろう。きっとこのCASTAYAの仕掛けは、観客を茶化そうとかバカにしようとかってことでは全然なくて、演劇という今ここの瞬間を、一緒に共有できるその喜びを噛みしめているのだと思う。先に帰った人のことも、最後まで居残っているこのわずか10人くらいの観客のことも、CASTAYAは、あるいは演劇は、ひとしく愛している気がした。そう思うと、ぼくの中でも演劇LOVE指数がどんどん膨らんでいくのだった。


あと5分で閉館時間となります、というアナウンスが流れる。一瞬、空気が緩む。とまっていた時間が動き出したかのように錯覚する。だがそれはフェイントにすぎなかった……。




この3時間におよぶprojectが最後、結局どういう終わりを迎えたかについては、あえて書かないでおきます。というか一体なんの話? って人も多いと思いますけど、あんまり状況説明とかはしたくないのでごめんなさい。でもジョン・ケージの『4分33秒』がぼく(ら)にとって伝説にすぎなかったとしたら、CASTAYAは明らかに今目の前に起きて、それをその場で観てしまったわけで、これは一生忘れようのない体験になったし、もしも演劇の歴史というものがあるのだとしたら、この公演は間違いなくひとつの到達点として、後世に語り継がれるのではないかとも思います。だから、たまたまその場に居合わせたひとりの観客の「証言」として書いておきますが、この時間は、愛に満ちていた。……終わったあと隣のコンビニでビールを買って一気に飲んで、それから柴くんが今度三鷹でやる『わが星』の稽古場に勇躍おじゃましたけども、CASTAYAの衝撃がつよすぎてふらふらしたままで、ご迷惑じゃなかったかしらと少し心配です。でも、こちらも楽しそう。にーなさんが優しかった。雰囲気がすごくいい感じでした。……ああ、なんだろう、すみませんベタな言葉ですけども、生まれてきてよかった(笑)。(笑)つけてるけどマジで。