応答、天才の白日夢について


ぼくは論争というものが得意ではないです。どちらかというと、AもBもあっていいんじゃない? と思うようにだんだんなってしまった。ロジカルに矛盾を突く、ということにもほぼ意味を感じません。その矛盾にこそ、その人の考えていることの本質があるかもしれない、とは思いますけど。だからカルハズミナコトバの主は戦意をもっておらず、ちょっと申し訳ないが論争の相手としてはものたりないかと思います。でも納得いかん、ということであれば話し合いのテーブルにつく準備はありますし、どうしても会えない(遠隔地にいるとか)のであればメールでもなんらかのお返事はできると思います。でも建設的な何かが生まれるとしたら、その数々のハードルを超えてまでも会おう、というところからかなと予感しています。たぶん、お会いできる日もそう遠くはないでしょう。いずれにしても、そこでは固有名詞ももっと使って喋ることができますから、もう少し具体的な摺り合わせも可能だと思います。


とはいえ、まったくフォローなしで書きっぱなしというのも誠意に欠けるように感じますので、ここではホームの利を使わせていただいて、一度だけ、しかも一対一対応ではなく、漠然と思うことを書きつけるという形でのみ、応答させていただきたいと思います。




まず前提として、ある種の潮流に対して釘を刺しておく必要を感じたのでああ書いたまでであって、個々の書き手が強い気持ちをもって方法論なりアイデアなり態度なりについて考えて実践しているのであれば、ぼくはそれ自体を否定しません。ましてや、書くことそのものを否定するものではないです。潮流を潮流として把握するためには、そのストリームから一歩身を引きはがしてマージナルな領域に立つことが必要ですが、強い気持ちがあればそこも軽々と突き抜けるでしょうし、それはある、と認識できました。とりわけ、言葉の貧困とたたかうことは重要だと思いますし、共感もします。


ただいっこ、メインの論点から離れてじぶんの関心にひきつけて思うことがあるとしたら、それは「アーキテクチャの未来」というものを、ぼくはほとんど信じてないということです。つまり「ネットで個々の感想が百花繚乱」というのはひとつの理想でしょうけども、残念ながら、まずもって(とりわけ小さな劇場なんかでは)パイの大きさの問題もありますし、また炎上的な事態もしばしば起こります。炎上はバグとかアクシデントってことではなく、ほとんど不可避に起こる構造上の欠陥のような現象だとぼくは思います。そして、そうした事態を楽しむ人もいれば、忌避する人もいます。感性はそれぞれ人によって様々です。そうしたものの集積がいわばネットなわけですが、細かいところは抜きにして結論だけ書くと、たしかにネットは、ウィキペディアなど「情報」のアーカイブを構築していく集合知には向いているが、個々の「意見」が集合的に表出する場としては様々な課題があるし、その百花繚乱という理想的な状態は、結局のところ訪れることはないと思います。レビューであれ批評であれ、それらは単なる「情報」の域を超えて「意見」である以上、あくまでそこにあるのは、固有の顔をもった個々の書き手による何かだけです。そのとき、つねにぼくたちは、何かに似てしまう、ということを問われる。その「似てしまう」宿命とどう対峙するかというところに、多様性を生み出すことができるかってのは懸かってくるとも言えます。だからぼくは、もちろん批評そのものを否定するわけではありませんが(それと一緒にされたらこまりますが)批評をどう書くか、どうやったらそれは可能か、ということは考えます。「似てしまう」ことの間隙をどのように縫って打って出ていくか。そこでひとつ戦略としてカギになるのが、批評は「アーキテクチャ」の裏をかけるか? ってことだと思うのです。


現在、「アーキテクチャ」への過度な期待というものがもしもあるとするなら、それはかつて夢みられた「民主主義」の理想に似ています。有権者ひとりひとりの民度が高まりさえすれば、民主主義のシステムが機能し、理想的な民主的な政治運営が可能になるはずだ、という牧歌的なものとして多くの人々に夢みられた部分がありました。でも、それはやっぱり夢でした。人間はあまりにも気まぐれでしたし、つねに不条理をその裡に孕んでいるのです。集合的に捉えきれない欲望もあれば、突発的に起こるアクシデントもあります。よくわからない風も吹きます。そして多くの人は風になびくのです(ぼく自身も含めて)。そこで、今度はそれを批判的に継承するものとして「アーキテクチャ」の理論が台頭してきた。つまり、個々の人間の清廉潔白な民度に期待するのではなく、その行動を決定する環境要因に着目するというわけです。これは議論の土台設定としては非常に興味深いものに思えますが、ただそれがある種の決定論、つまり、それを操作し構築しようとする人間の欲望や意志の問題を抜きにして、「こういう仕組みだから自然とこうなるのは当然だよね」というきわめて受動的・記述的な発想とセットになっていることにいささか危惧をおぼえます。それはもしかしたら、奪われている、という感覚さえも奪われているということなのかもしれないですけど。ともかく「アーキテクチャ」論によって、「我々がいるのは、今こういう社会なのだ」と記述できると過信するなら、それもまたかつての「民主主義」の理想と同じく、エドワード・サイードのいう「いつも失敗する神々」にすぎないでしょう。しょせん、「神々」の首がすげ替わっただけで。(東浩紀が最近「なんとなく、考える」で自分の著書の読まれ方について書かれていましたが、それもゼロ年代の証言として大変参考になると思います。)


「つぶやき」や「情報」を提供しつづけるのも全然アリでしょう。余談ながら「つぶやき」という点で傑出しているものとしては、円城塔がenjoe140としてtwitterで連載している一連の小説群、あれはすごいですね。あそこまで到達できないにしても、実際、誰もかも、ぼく自身も、意図と関係なくあまり意味も考えず、そうした「つぶやき」や「情報」の集積に知らず知らず貢献しています。そしてそれは、ただただ、よくもわるくも自由な行動ですし、それ自体をどうこうできるものでもないのかもしれません。でも、もしもそこで批評によってインパクトを与えたいとか、リードしたいといった傑出した書き手としての欲望があるのだとしたら、その人は、「なんとなく今世の中がこうなっているからこの方向にいくだろう」という安易な予測にとどまっていていいものだろうか? というと、残念ながらそれは、結局は裏切られる夢にすぎない、としかぼくには思えません。時代の推移について、変化について、これまでも様々な人々が様々な予測を立ててきたと思いますが、残念ながらその次の時代は、つねに、そうした集合的な予知や、その時どきの環境から当然導き出されるであろうと思われた帰結を、見事に裏切ってきたと思います。今度もたぶんそうでしょう。


そして、次の時代の像は、多くの人が想像したものの集積ではなく、あるひとりの天才が、白昼夢にふいに見た何かに似ています。ぼくとしては、そうしたひとりの天才の夢を発見することに賭けています。逆にいうと、その夢をみるために、つい、未来を予測しようとしてしまうのかもしれません。その天才が座るべき玉座を、収まるべき器を、用意したいと願うからです。そのためには、言説(言葉の資源)の配分のようなものを、時には操作する必要だってあるだろうと思っています。残念ながらそれは、多分に人為的なものでありうるからです(出版に関わる人間であればそれは考えるでしょうさすがに)。そして、ぼくが今ほしいのは、その天才の発見に協力してくれる作家であり、作品であり、批評であり、仲間です。できれば協力してくれる媒体や会社もあるとうれしいですけど。極端にいえば、あとは何もいりません。(さすがに生きていくための軍資金はほしいですけど……かなりこのためにいろんなものをなげうっているので)




ただ最近思うのは、天才というのは、べつに特別な人ではないのかもしれないということです。もしかしたら、ある特定の人間でさえないのかもしれない。それはふとした瞬間に、例えばキッチンで料理をしながら、または空をぼーっと眺めながら、誰にでも訪れうるものではないか。あるいは、劇場のように凝縮された空間で、複数の人々がそれを同時間的ににある顕現として体験するものではないか。そういうものとして、ぼくは天才の夢を考えはじめています。それはもしかしたら、愛、という言葉と何かしら関係があるのかもしれないのですが、そう思うようになったのは、たんに少し歳をとったせいかもしれないし、夢の欠片のようなものを集めながら、それらを繋ぎ合わせるためのマジック(魔法)としてそれを想像しているせいかもしれません。あくまで誤解のないように言えば、ぼくはアンチ・ドラッグ派です。ドラッグはむしろ天才の対極にあると思います。少なくとも今の日本においては。


蛇足ですが、名前が挙がっていたふたりの批評家に関していうと、蓮實重彦はその天才の夢ということについて痛いほどわかっていて(それはもう、はるかに)、それでああいった文章をこれまで書いてきたんじゃないかと、少なくともぼくはその哀しみのようなものを感じながら読みました。佐々木敦が最近「文學界」に書いていた磯崎憲一郎論にも、また別のそういった何かを感じます。