六十億総プチ・フィクション時代における呪術作品


恥ずかしさを回避するための最良の方策は、何も言わず、何も書かず、できれば何も見ず、何も聴かないことである。何かを見たり聴いたりしてしまうと、どんなにお口にチャックをしようとしても、そこからつい何かが洩れ出てしまわないともかぎらないのだから。大人しくあのthree wise monkeysの顔でもありがたく拝んでおくのが、平穏な生活にふさわしい、慎ましく小市民的であり、同時に紳士淑女的な生活でもあり、さらにはまたそれが、高潔な賢人にいたる最短距離の道でもある。


でも人間はおそらく、そもそも〈洩れ出てしまう〉性質を持っているものだし、特にネット以後の時代において、まったく洩れ出ないというのはほとんど奇跡に近い。であれば俗物的な人間である私たちは、生きてるだけで恥なのだと肝に銘じて、とはいえそこに開き直るのでもなく、いかにしてうまく〈洩れ出る〉か、いかにしてうまく他人の前に〈現れ出る〉ことができるかを考えるほうが、つまらない恥にとらわれて自意識ごときを磨り減らすよりも、はるかに精神的に健全だと思える。だいいち、洗練されて微動だにしないような完璧主義的に寡黙でカッコイイ部分よりもむしろ、少々みっともないが洩れ出てしまうその欠陥や瑕疵の部分にこそ、得てして他人には魅力的に映る部分があるものだ。なれば今こそ、恥辱にまみれて乱舞せよ。


ところでそうした露出は、実名であれ仮名であれ、公的であれ私的であれ、プロであれアマチュアであれ、本質的にはほとんど変わりなく、大なり小なりフィクションとしての性質を帯びてしまう。全人的な人格が、そのままイコールでネット上に投影されるのは不可能なのだから。つまり誰もが、仮の人格として他人の前に演劇的に現れ、知らず知らずのうちにフィクショナルなものを自然と生産してしまうのである。ブログのエントリーやtwitterのつぶやきやSNSの日記など、その愛らしい生産物の一群を、ここではひとまず「プチ・フィクション」と呼んでみることにしよう。


人間は歴史的にみて、フィクショナルなものを求める性質があると思うのだけど、現代に生きる私たちのその欲求は、大部分、この愛らしいプチ・フィクションによってとりあえずの充足を得ているとみられる。かつて(ある程度は今でも)テレビで芸能人や有識者が喋ってお茶の間をうるおしたのも、プロフェッショナルに大資本の力が投入されたとはいえ、今思えばプチ・フィクション的な消費パターンの原型であったと考えられる。おそろしいことに、カラー・テレビが普及したのはたかだか半世紀ほど前であり、ネットが普及してからは10年かそこらしか経っていないのだが、今や、誰もが普通に日常的に使うブログやtwitterやその他のSNSは、愛らしいプチ・フィクションを大量に生み出し、フィクショナルなものへの欲求を満たすと同時に再生産する巨大な欲望と消費のシステム(アーキテクチャ)を補完しているともいえる。それはもはや私たちの生活にとって、いつのまにか「デフォルト」になっている。*1




そんなわけで、恥辱にまみれつつどんどん産めよ殖やせよでプチ・フィクションを再生産していけばいいと思っているのだが(恐れることはない!)、ところがそんな時代にあって今なお、ハナから作品として不自然に書き上げられたフィクション(小説や戯曲など)が、時として、そうした自然で自動的な生成物であるプチ・フィクションの群れをはるかに飛び越えて、刺激的にこの世界にあらわれうるのはなぜか? 誰もがブログを書くようなキラキラした輝かしい一億(六十億?)総プチ・フィクションの時代にあってなお、作品としてのフィクションが暗闇の淵でほの光り、不気味に笑い、あるいは陽気に踊り出し、改心の一撃で我々の認識を撃ち抜く、そうした存在意義を持ちうるのはなぜか?


もちろん作品は、新たなプチ・フィクションのための燃料として、つまりブログやtwitterSNSでお喋りするためのネタとして、投入され消費されていく面もある。その消費のサイクルが時として作り手を経済的に支えることもあるし、友人とのお茶やお酒の席で共通の作品の話題で盛り上がる時間は楽しいものであったりもするから、そのサイクル自体は全然否定されるべきものではない。けれどもそうしたコミュニケーションの燃料なりネタなりとして使われるのとは別個に、というかほとんどまったく関係なく、作品にはまずもってフィクションそのものとしての自立性、すなわち「神」的なるもの(超越性)と交歓する呪術性も備わっているはずだ。


「神」的なるものや呪術性などといった概念を、突然ここに持ち出すのはいかにもいかがわしい行為だと苦笑せざるをえないけども*2、とはいえ、日常にあるこの〈ただひとつの現実〉を離れて、その「神」的なるものに触れたいという欲求が人間の奥底にはたぶんある、とひとまずは信じてみたい。どうしてあなたは小説を読むのですか? どうしてあなたは映画を観たり、演劇を観たりするのですか? といった質問に対して「神に近づくため」と答える人がいたとしたらそれは狂人にちがいないが、本当のところは、呪術とは言わないまでも、それに近い祝祭的な何かを求めてはいるのだ、たぶん。おそらくはアメノウズメが岩戸の前で踊り狂い、神々をそのエロティックな所作で笑わせ、引きこもりのアマテラスを誘惑してこの世界に引き摺り出したその時から。


呪術的・祝祭的なものを求める欲望は、けっして偏在するプチ・フィクションでは埋められない何かであり、ちょっとやそっとの時代の流行や、環境の変化といったものによってそう簡単に失われるものではない。そして呪術性を帯びたフィクションは、日常的なプチ・フィクションの言語モードで把握できるものとは、やはりどこかズレている。歪んでいる。どうにも不自然である。そしていびつであるがゆえに、冷静に考えれば異常に恥ずかしい創作物である。到底、プチ・フィクションにおける日常的な恥ずかしさの比ではない。あまりに恥ずかしすぎて、恥ずかしいという感覚が麻痺してしまうほどの強烈な何かなのだ。そして私たちは、その日常性と乖離する軋みや歪みの中で笑ったり泣いたりする。何かに強くうたれる。


ところが、その不自然で異常に恥ずかしい創作物は時として劇薬として機能し、あるいは外面上、天使のような微笑みを浮かべてはいたとしても、心の底には恐ろしい不気味さを秘めていたりもする。作家それぞれの秘薬によって調合されたそれらの不純物を感受するために、受け手の側の切磋琢磨は欠かせない。異質なもの、まだ見たことのないものに即座に対応できるOSなりアプリケーションなりをサクッとインストールでもできれば便利なのだが、現在の科学技術ではそれは不可能で(できれば永遠に不可能であってほしい)、だからじわじわと様々なものに触れながら、徐々に受け手としての感性=アンテナを磨いていくことでしか、呪術的な作品に近づいていくことはできない。とはいえその感受能力は、学力テストのように点数計算的に把握できるものでもないし、順調に段階的なホップステップジャンプを辿るものでもなく、時として唐突な出会いがしらの一撃によって、飛び級的にいきなり視界がひらけることもある。道はひとつではないし、必ずしも机の上だけにすべてがあるわけでもない。いずれにしても読めるもの、触れられるものがひろがっていくということは、人生というものに与えられたチャンスでもあり、最大級の喜びでもある。だが、そんなことに血道をあげること自体、今となっては珍しいことかもしれず、その意味ではいささか恥ずかしいことではあるのだけども、大丈夫、恥ずかしくない穏便な世界、あのthree wise monkeysが司る賢人的な世界のほうは、すでに足下から崩壊しつつある。


ところが空しいことに、どんなにか磨いたところで、いつか必ずそのアンテナは朽ち果てる。そのことを考えると、みずからの生物学的な死、以上に哀しくもなるのだが、だからこそ、その感受性の死が放つ面妖なるエロスによって、人はまた呪術的な作品のほうへと懲りもせずに吸い寄せられていく。アメノウズメは未だに踊り続けているのだ。岩戸の前で、何かが出てくるのを彼女は待っている。その露わな裸体をつぶさに観察してみれば、それもまたやっぱり恥ずかしいことであると気づくのだが。


私たちはどうやら、絶望的にトートロジックな、何重にも織り込まれた恥ずかしさの中を生きている。さあ、ならば、今こそ恥辱にまみれて乱舞せよ。繰り返す、恥辱にまみれて乱舞せよ。そう呼びかけてくるのは死者のテクストだ。以下は「いま、血を流しているところなのよ、パパ、ではじまるはずかしいノート」について。

あたしに理解できなかったのは、なぜあんなものを書いたのかということでした。ひとはなんのために小説を書くのでしょうか? 小説家は、小説を分泌せずにはいられないという業病を金銭とむすびつけることによって生きている人間で、あたしには理解できない種類の人間に属しますが、素人の場合は、自分の生に意味づけしたいという衝動から手記のようなものを書き、それがごく自然に変質して小説となるのでしょう。つまりかれらにとって、小説はあきらかに認識の一手段です。ところで、あたしの場合はそれとはいささかちがっていました。あの小説(またはたんに、あのノート)は、あたしにとって呪術の性質をもっていたようにおもいます。あたしの分泌したことばは、現実をとかして、現実と非現実の境にゆらめくかげろうのなかにあたしをとじこめるための呪文という性質をおびていました。いまになっておもえば、あたしはあの小説によって、不可能な恋人であったパパに対するあたしの不可能な愛を聖化しようとしたのでした。あたしの肩から、毒蛇のような愛にみちたいまひとつの頭を生やそうとしたのでした、にせの恋人パパを愛するために。

  倉橋由美子『聖少女』(1965年) 色の異なる部分は下線



 

*1:それがあまりにも素早くスムーズに進行したせいで、たとえば1988年の『ダンス・ダンス・ダンス』のなかで「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ」と羊男に云わせていた村上春樹が、2006年になって突然「壁と卵」の話を始めても、若い、新しい感性を持った読者にとってはさっぱり意味がわからなかったか、あるいは素朴に聞くしかなかったのではないか。羊男は「デフォルト」以前の生き物だった。

*2:歴史の浅い新興宗教は、ある意味では擬似的な「神」的なるものを用意すると共に、その人の存在意義=居場所のようなものも比較的簡単に与えてくれるのかもしれないけれども、受け手や作り手が作品と対峙していく中で見えてくる「神」的なるものとそれとは、まったく似て非なるものだとも思う……というか一緒にしたくない。まあそのへんは敵があまりに巨大なので今は保留。