限界芸術on twitter


twitterで書いたものをそのまま繋げてみる。後半は@nomuramssとのやりとり。


地震で目覚め、過去ログ(って言うのか)を追ってるうちに閉会してしまった……。しかもすべてフォローしてるわけではないので「会」の裾野が見えないのがまたオツ。最近漠然と考えつつあるのは、当の作り手以外の人間が舞台を見た時に、たとえそれがプロフェッショナルな訓練と経験を積んだ人であってもやはりどうしても「幻視」するのではないかということ。しかし劇評を書く人は、倫理的な制約からか……というよりはもっと無邪気に(無自覚に)、見たものを書ける、と信じている部分がある気がしてしまう。ところが演劇にかぎらず、およそ芸術と呼べるものは、それを観るものの「幻視」を誘うという側面がどうしてもあるし、正直、いろいろ観るかぎりでは強烈な「幻視」を誘うものこそが少なくとも僕にとっては良い作品である、ということになる。論理的、合理的に、一対一対応で理解できるものであれば、わざわざ芸術という形式をとらなくても言葉で説明すればいいのであって。ある芸術作品にはそのような理解を超えた「飛躍」が必ずある。そして面白いのは、当の作り手でさえも「幻視」する可能性があるということ。たぶん作り手にもわからない、ということが作品を通して生じてくるし、特に演劇の場合は公演期間中も作品は触られて生成しつづけていくわけで。となると作品とはもう、蠢くもの、としか言いようのないもの。そのようなものとして作品を捉えることが、ぼく自身としては最低限の倫理かな、と思っている。何年か前の「小説のことは小説家にしかわからない」のか論争も、本当はもっとそうした議論まで膨らめば良かったのだけど、やや不発に消化不良のまま終わった感は否めない。結局、記憶の彼方。芸術としては、「小説のことは小説家”にも”わからない」であることが面白いのじゃないか。しかしもちろん、何もかもわからない、では作品はつくりようがないわけで、作家にとって何らかのとっかかりのようなものは必要だし、作品を触り続けて膨らませていけるだけの手つきも必要。で、サンプル「あの人の世界」に感じたのはまさにそれ。あの空間における戯曲と役者の配置やひろがりといったものを、松井周さんが最初からパッと構想しているとは到底思えない。そこはドラマターグを置いて、かつ美術の人ともコミュニケーションをとって、いい感じの制作スタッフがいて、という体制とも関係しているに違いなくて、となると「作家」と我々が呼んでいるものは一体何なのか?ということを少なくとも劇評を書くような人は考えざるをえないはず。いったん生み出されてしまったもの(作品)を、いろんな人間が触っている。で、そこから考えられることは、ではいったい、誰(まで)がそこに触ることを許されているのかということ。作品を観て「幻視」して、その見えたものをたとえばネットに書く。すると「サンプル あの人の世界」でググるとその「幻視」の数々が浮かびあがってくる。もちろんその「幻視」は、元の作品自体とは何の関係もない、とひとまずは言うことができる。しかし、その作品について捉えたい、と考えている第三者にとっては、元の作品についてまわるそのような「幻視」もまた、ひとつの総体として一緒くたに捉えてしまうことは当然起こりうる。そして我々は、すべてのお芝居を観られるわけではない。したがって、そのようにして形成されている評判のようなものを、なんとなく、本当に何気なく、ネットやら風聞やらで収集する、という作業を日常的に行っている。ほとんど空気のようにして。そしてその空気の中に、かならず「幻視」されたものは入り込んでくるのだ。もちろん作家には、あるいは作家の周辺にいるスタッフには、そのような「幻視」から作品を守る権利はある。したがって、そのような「幻視」は作品とは何の関係もなく、私(たち)には与り知らぬことです、と言っても全然かまわない。しかし作家が、ある作品をつくり、それで終わり。ということはありえないわけで、また作家はそのあとも作品をつくりつづけていく。それが作家という存在なのだから。そして当然作家の中に、ある種の「幻視」が入り込んでいく、ということも起こるだろう。だからいまの時代に、そのような「幻視」を拒絶して、できるだけ入り込まないように、としっかり殻をつくっている作家もいて当然だが……そのような殻をひとまずは解除して、あるいは少しだけ穴をあけておいて、そこから入り込んでくる「幻視」の数々を呑み込み、消化し、他のものに変節させながら再び別の作品を手がけていく、という作家もいていいはずだ。以上は、現代においておよそ作家と呼ばれる人たちなら当然考えているような、ごく当たり前の話だと思うのだが、観る人、評を書く人はそういったことを考えているのだろうか?と疑問に思うことが多々ある。いまだに、ある作品に対して、まるで無関係のような顔をしながら、でも結局は「幻視」でしかないことをのうのうと書く、ということが起こる。もちろんそこで、作家なり作品なりと一定の距離をとる、というその距離感こそが書き手の質を決定するのだが……単に無邪気に、最初から安全な距離がある、と思っている感じが、その身体の構え方ひとつからしてもありありと感じられることがあって、それは2009年の現状としてどうなの?とか思う。たとえば佐々木敦が「絶対安全〜批評」という言葉をつかうのは、「絶対安全な場所なんてどこにもない」ということの裏返しでしょう。安全な場所なんてどこにもない。そういう時代に、我々は作品を(あの蠢くものを)いたるところで目撃している。遭遇している。そういうことだと思います。以上、すみません、何の気なしに呟き始めたら大変なことになってしまった……。申し訳ない。誰か特定の人に対してどうこうという話ではなく、総体の風景として、の話です。では、そろそろ旅の準備をします。いまだバックパックにパスポートすら入ってない。


ご、ごめんなすい。もう二度とこんなことしないと思います。なんかあの議論に刺激受けてしまって(内容と直接の関係はないけど)。これだったらブログでいいじゃん、と思うけどブログじゃたぶんダメなんだよね。まあね…。でも偶然感想を書いてみた、というくらいならともかく継続的に書いていくような人には要求してもいいというかハッパかけたい。へえー。三好さんとかもまた違うのかもね。そこが劇団とかってものの懐の広さでもあるかも。ハイバイとサンプルは全然違うもんね。この三好さん(制作)の二刀流問題(笑)とか、野村政之のフィクサー(ちら顔見せ)ぶりは面白いと思います。観てるほうとしては単純に、バラバラなほうがシーンとしては面白いですよ。たとえばいま池袋が熱い、みたいなのは濃度として面白いけど。でも芸劇とかFTがすべてを仕切って網羅してるわけでもない。うん。そこでね、制作とか編集のポジションだと難しいけど、作家のほうは、超越的なもの(だけ)を信じて邁進してもいい気がする。もうどんどん突っ走ってほしい。まあ実際にはノイズにまみれるわけだけど。理念としては。そう、そーゆーことでした。twitterのやりすぎで電車乗り過ごす人は多かろうが、飛行機をを乗り逃す人はきっとまだいないに違いない。行き先はここでは内緒です。地名は抽象度を決定するから。(古谷利裕さんが「偽日記」でも書いてたけど最近)いいこと言うぜ。RT @moomin_valley いよいよ今夜は、きっとぼくたち、長い冬のねむりにつくんだぞ - ムーミン


ではいってきます。