あの人の世界の「リアル」


明日から数日間日本を離れるというのに、ほぼ何の準備もしていない。そして飛行機に乗って、昨夜観たサンプルのイメージをそのまま持っていく。異国の地ともそれは馴染む気がする。


今週は駆け込みでいくつかのお芝居を観て、劇評チックな感想をここに書き散らした。それは僕としては、作り手への敬意のつもりではあるけれど、裏を返せば傲慢だし、いったい何様のつもりで書いているのかと思う。我ながら。ひどい話だ。本当は、劇評なんて、書けないのだ。書けない、というところに、演劇の本質(大事な部分)があって、少なくとも演劇について書くからにはその断念をあらかじめ……おや、なんだか蓮實さん節みたくなってきた……とにかくみじめだ。2009年に、文字を書く、ということのみじめさ。遅れてきた……という言辞自体もはやクリシェだが、遅れすぎた。完全にトゥーレイトだ。それを、ふだんは気づかないようにして生きている。でもほんとはわかってるんだよ。もう全部終わってたんだって。みろ。みんな死んでいくじゃないか。


でも、すごい事実がある。それは、人間が人間を生む、ということだ。生物としての人間を。セックスに取り憑かれていますよ人間は、その存在根拠として。だから終わってないように見えるし、本当に終わってないのかもしれない。でも、そこに希望とかってことを考える必要はない。とりあえず生きてみよう。生きてみて、いろんなものを見届けて、その世界にまみれてみよう。




サンプルの『あの人の世界』の前で僕は子供のようになった。目の前で繰り広げられるキラキラしたものを、憧れとか不気味さとかいろんなものを感じながら、でもそのひとつひとつの感情をまったく言葉にできない(しない)まま、ただ目をあけて、耳をひらいて観ていた。だからこれがミュージカルだって言われても全然納得できる。たとえ全部夢でした、すみません、とかいわれても、あ、そうだったんだーと思う。


いったい私たちは、観劇という行為において、何を観ているのだろう? それはここ数ヶ月考えてきたことだった。「キレなかった14才♥りたーんず」の時に僕は毎日劇場にいて、だからもう、すでに知っている話を、役者がここでこうする、という細かいアクションまでわかったうえで何度も観た。阿呆だった。それは劇場というものに馴染んでいくための通過儀礼にも似ていた。演劇関係者にとってはそれは当たり前のことだろうけど、演劇と呼ばれるものの外部にいる人間がそれをやっていくとだんだん狂っていく、気違いじみていく。時々正気に戻ると、自分の阿呆な行為が不思議だった。でも、反転して考えてみれば、正気で演劇を観ているということ自体、かなり阿呆な気もする。それでもとにかく繰り返し目の前で起きていることが面白い、とその時思って、そうなるとそれはもう通常の観劇の状態とはまったく違うものを観ていることになる……。


単純にわかったことは、前の席のほうが圧倒的に役者に近い、という当たり前の事実だ。そして、近いほうが「リアル」である、と錯覚しがちだ。サッカーを観に行ってもそうだ。前の列のほうが選手に近い気がする。後ろのほうが俯瞰できる。全体を見られる……と思っている。ところが……ところが、肝心なのはそこではない。たとえどんなに劣悪な席であっても、スタジアム全体がぶわーっと何かを凝視している時間というのが、年に何回か訪れる。それは、もう観客が観ている、というレベルではなくて、スタジアムというものが生き物になって動き出してその「目」で観ている、という感じでフィールドを包み込むことが、本当に稀にだが起こる。すると、本当にどんな席にいてもそれは観ることができてしまう。演劇も、すっごく稀にだろうけどそういうことがあるんじゃないか。




さあ、そして『あの人の世界』だ。これは特に超前衛でもなければ、すごく突き抜けた最前線の演劇というわけではないだろう。だから僕はこれを絶賛するつもりはない。僕は個人的には超ビビビッときたけど、絶賛とか、そもそも毀誉褒貶とかはかなりどうでもいい。でも、これを観る、ということの中に、演劇を観る、ということがあるのだと直感する。


言うまでもないことだが、もういいかげん、自然主義リアリズムだけが我々の「リアル」だ、と考えるのはやめてもいいだろう。もう2009年なんだから。あれが、これで、これがこうなって、といちいち確認しないと観られない、というのは人類が積み立ててきた資産のことを考えるととても貧しい観劇方法だ。いったい2009年になるまでにどれだけの人間が生きて死んでいったと思ってるんだ。難しい、難解だ、自分は頭が悪いから……と言い立てる人にかぎって、実は平板に小さい脳内だけでものを考えている、ということにそろそろ気づこう。自分は頭が良くなくて、ポップで小市民な大衆なのです、などとひとりごちっているやつは鼻でせせら笑ってやればいい。そうだ、あんたはバカだ。自分では(口から出る言葉と違って)そう思ってないと思うけど本当にバカだ。残念だったね……あなた、バカのまま焼かれて灰になりますよ。白い粉になりますよ。まあいいけど。俺の人生じゃないから、好きにすればいいけど。でも人間にはもっと可能性があるのじゃないのか? 目が、耳が、口が、手が、皮膚が……そうだ皮膚があるし、皮膚だって呼吸する。毛穴から演劇が侵入してくる、ということだってあるのじゃないのか?


劇場というのは、そうした異物たる演劇の侵入を90分とか100分のあいだ許す、という約束が交わされた場所なのかもしれない。




てゆうか、『あの人の世界』面白すぎる。ホームレスドクターとその一味なんて、子供の時から憧れてきた何かに似ている。盲目の女とあの婆さん、見たことあるだろう。あるある。あの奇声。言葉にならない言葉。いつも聴いてるよ! いつだって。自転車にだって乗る。音楽だって聴く。踊る。人知れず踊る。それは本当に、踊らされているだけかもしれない。でもそこに生き生きしたものを感じたりする。


それが「リアル」なんじゃないか?


僕はでも正直、この「リアル」という言葉が嫌いだ。何かを決定的に掴み損ねている感じがどうしてもする。「リアル」と口にした瞬間に、耳にした途端に、「あーあ」と残念な気持ちになる。そういう意味でいえば、昨日『あの人の世界』を観ながら、わー、という感じで憧れを持って舞台を見つめていて、ふっと、「あれ、これって最初っから全部間違っているんじゃないの? これ全部、最初から間違っていて、もう取り返しのつかないことになってるんじゃないの?」という感想が頭の中をかすめて、そのまま流れて劇場左の非常口から逃げていった。そういうのって、人生についてしばしばやってくる懐疑にそっくりだ。どっかでこれ、間違って生きてきたんじゃないの?というよーな。





『あの人の世界』についてずっと考えていたい。これがもし、枚数制限のある書き原稿とかだったら、つまり劇評だったら、それはちゃんと、終わりが来る。与えられた文字の分量にしたがって、『あの人の世界』について書く時間は終わる。でもこれはただのブログだ。そして僕はこれをファミリーレストランのドリンクバーを利用しながら書いている。ここでは、何時間粘ったって文句を言われない。ただ、PCのバッテリーが切れた時点で強制的に終了、となるだろう。それがいまの「リアル」だ。


けれどそんなことは卑小だ。卑小すぎることだ。あの、『あの人の世界』にあったような、キラキラとした輝きはここにはない。あの、めくるめく悪夢のようなものは。人間が、犬が、猫が、ネズミが、何かを象徴している? とかは関係ない。僕はあのキラキラとした「雨」の瞬間に何かがふーっと充ちてきて、泣いた。そこで「雨」を降らせたのは、松井さんなりのサービスなのかもしれない。僕はそのサービスをありがたく頂戴した。しっかり受け取った。こんなふうに泣けたのは本当にひさしぶりだった。




あの、舞台。観る前から、劇場に入った瞬間から、あれを観て気持ちが静かに昂ぶった。これからこの三角州のような場所で繰り広げられるであろうものを想像しようとして、しかしまったく思い浮かばなくて、そのことが嬉しかった。知り合いがたくさん劇場に来ていたが、僕はでも彼らのことをまったく知らない人間同然だった……子供になっていた。子供ってよくわからないと思っていたけど、自分が子供になってみると、ますますよくわからない。ただ何か、目の前のものにまっすぐ向かってしまう、そういうふうに視野がひらいているのだな、ということはわかった。


で、舞台は上と下にわかれている。松井さんはそれを最初、三層構造として考えていたようだ。でもはっきりと三層に、ドンキーコング的に上り下りするよりは、こんなふうに遠近感の狂うような、どっちが上で下かわからないような構造のほうが全然今回としては面白いと思う、たぶん。素晴らしい舞台美術だ。それが『あの人の世界』をきっちり構造として支えている。観客に提示している。


そしてその舞台に、時々ふっと密度が発生する。ある場所が、空間が、時間が、ふいに濃くなる。濃くなるとそこにドラマが生まれる。ドラマって、ああ、そうか、こういうことなんだな、と腑に落ちた。こういう演出はきっと、何かのメソッドをそのまま適用するだけでは不可能だと思う。長い時間と経験の蓄積があって、勘とか方法が磨かれて、それがこのスケールの大きさに繋がるのだと思う。そう、本当に、『あの人の世界』は大きかった。というか広がっていて、外側の枠線が見えなかった。どこらへんまで広がっているのだろう? だから僕はこのまま海外にイメージを持っていってみる。




いま、東京の片隅のファミリーレストランで、朝の11時半、これを書いている。快快マーチのあの音楽が流れてきた。なんだか物悲しい音楽だ。繰り返すけども、朝の11時半。微妙な時間だ。『あの人の世界』は、いろんなところと繋がっている気がする。あの人とも、あの人とも。