事業仕分けの件で文部科学省に送ったメール

遅くなってしまったけど送ってみた。以下は固有名詞を伏せたものです。ブログに張ってみると思いのほか長い……。でもほんとに一言でもいい気がするし、ほんとに観るだけという人も、その立場だからこそ考えられることもあるはず。その声をぜひ届けてほしいなと思います。メール送付のフォーム等について詳しくは下記を参照↓

http://www.mext.go.jp/a_menu/kaikei/sassin/1286925.htm

文部科学省 中川正春様、後藤斎



今回の行政刷新会議による「事業仕分け」に関して、主に事業番号3−4(独)日本芸術文化振興会関係、および3−5(1)芸術家の国際交流、および3−5(3)学校への芸術家派遣、コミュニケーション教育拠点形成事業について意見させていただきます。


私は編集者として、取材などを通じて舞台芸術にも関わっており、たとえば××××。また同時にひとりの観客(受け手)として、芸術と呼ばれるものに日々親しんでもいます。そのような立場の人間として、主に演劇を中心とする「芸術」や「文化」について考えると、今回の「事業仕分け」の結果には納得のいかない部分が大きく、再考し、議論を重ねたうえで結論を出していただきたいというのが切なる願いです。


事業仕分け」によって国家予算のブラックボックスが解体され、透明性が確保されること自体は歓迎します。そうした民主党政権の果敢なチャレンジに期待してもいます。そして「芸術」や「文化」の領域にもやはり無駄な部分はあるのかもしれませんし、それだけがアンタッチャブルな「聖域」ではいられないでしょう。


けれども、必要な事業にはきちんとお金を流すような仕組みにしてほしい、というのが率直な意見です。コメントを拝見するかぎりでは、個々の事業の必要性についてきちんと精査したうえでの判断がなされているかどうか現状では甚だ疑問です。再度広く、有識者や一般市民を(決してアリバイとしてではなく)巻き込んだ議論を経たうえで、結論にいたってほしいと思います。そうした議論はきっと、民主党政権としてこれからこの国にどのようなビジョンを示していくか、ということにも繋がるものと思います。少なくとも私(たち)はそのように受け取ります。仮にそうした議論を抜きにしてなんでも民間に丸投げを唱えるばかりでは、「小さな政府」を通り越して単なる「極小政府」にもなりかねません。そうした切り捨て政策は政権への不安を煽り、生活を疲弊させ、民心を荒廃させることになりはしないでしょうか?


とりわけコメントの中に「芸術は自己責任」との言葉があったのは極めて残念です。もちろん芸術家というものは、たとえ食えなくても、周囲の無理解にさらされる中にあっても、試行錯誤しながら社会との接点を見出し、その摩擦の中でみずからの作品を磨いていくものだと思います。たとえ補助金がもらえなくても、ありうるその条件の中で創意工夫し、ハングリー精神を強く持って臨む姿勢が芸術家には必要です。それくらいの強いものがなければ、世に問うレベルの芸術作品をものすることはできないでしょう。しかし実際の現場にいる人間たち(演出家や俳優といった人たち)は、誰かに言われるまでもなく、いちばんそのことを身に染みて感じているはずです。彼らの多くは、バイトやそれに近い労働をしながらも稽古や創作の時間をなんとか確保し、みずからの作品を日々磨いています。もちろんそれは単なる苦行の日々ではなく、彼らだって芝居の打ち上げ等で多少の酒を飲んだりすることはあります。けれど時給いくらでバイトしてる人間たちが飲む酒は、金額に換算して全部合わせても、銀座の高級クラブで振る舞われる酒一杯にも満たない程度の微々たるものです。それでも、それを美味いと感じられるような日々を彼らは生きている。……これは皮肉でもなんでもなく、私は彼らのそうしたたくましい日々を、とても美しいものだと考えています。誤解のないように強く言い添えれば、それは決して単なる青春の一ページではなく、彼らがその全人生を賭けて得ようとしている、一杯の美しい酒です。


そうした人生を選んだのは彼ら自身ですし、たとえ予算がカットされたからといって、彼らは活動をやめることなく、ひたすら邁進すべく悪戦苦闘するでしょう。でも、彼らが単に「テレビに出て有名になって儲けたい!」とか「とにかくお客を集めて商業的に成功したい!」とだけ考えているわけではないことは、ぜひともこの機会に理解しておいていただきたいと思います。そのようなかつての単純な成功モデルは、テレビというものがマスメディアの長として君臨し、経済成長も右肩上がりだった時代にはまだ有効かつ唯一絶対のモデルとして機能したかもしれませんが、今やそれはもう、信じるに足るものではありません。この一度きりの人生を賭けるに値するものではありません。彼らは(私たちは)彼らなりに(私たちなりに)この「夢」のない時代を真剣に生き、それでもなお、その中でみずからの「夢」を手探りで見つけ出し、かつそれを実現しようとして日々仲間たちと切磋琢磨し、あるいは孤独に創作に打ち込んでいるのです。それはトップダウン型で誰かから与えられる「夢」ではなく、少しずつ、仲間を集めて自分たちで育てていく「夢」です。もちろん、きれいごとを抜きにして言えば、その実現には必ずお金が必要です。彼らは芸術家であると同時に生活者でもあり、日々ご飯を食べて生きていかなければならないのですから。


それでも、その「夢」は決してただの夢物語ではなく、いくつかの劇場の周辺で実際に少しずつ育まれ、まさにこれから花開こうとしているようにも思えます。具体的な名前をいくつか挙げると、××××氏が運営する××××や、××××氏が芸術監督を務める××××、××××氏が次期芸術監督に就任した××××、また私が信頼する××××という演出家がいる××××や××××なども挙げられると思います。そういった場所に足を運べば、単に特定の演劇ファンばかりではなく、地元住民や子供たちも含めた老若男女の人々を徐々に巻き込んでいく、ということが具体的に起きている光景を見ることができます。そういった場所を足がかりにしながら、現場の芸術家たちは、どうにかして食いつなぐ手段を確保し、また次の作品を作り、それを世に問うているのです。


こうした生活と芸術のサイクル、まさにこれこそが「文化」ではないでしょうか。そしてこうした「文化」の土壌は、一夜にして形成されるものではない。草の根の活動を通して、徐々に、ゆっくりと形成していくしかないものです。


また一方で、海外に進出する芸術家たちもいます。小劇場演劇と呼ばれる界隈からは、最近では××××や××××などといったグループが海外のフェスティバルに呼ばれ、当地でも高い評価を得ていると聞いています。彼らはまた国内でも公演を打ちますし、所属する俳優たちも様々な他団体の公演に客演したりして、どんどんとその経験値を周囲に振りまいています。××××氏の××××もすでにかなりの海外実績を積んでいますし、また私はその公演を見逃してしまいましたが、××××は××××から俳優を呼んだり、また××××へ行って公演をするということもやっているようです。彼らはこうした活動を通じて海外公演のノウハウを蓄積し、それを国内の他の芸術家たちにも還元し、ひいてはこの国の(世界の)文化を豊かなものにしてくれるのだと私は信じます。そしてその際、演出家や俳優同士の横の繋がりだけではなく、公演に帯同したりセッティングしたりする制作スタッフにも経験が蓄積され、そこで生まれる人脈が徐々に広がり、他の人たちにも継承されていく、ということも決して忘れてほしくありません。


すべてこうしたことは一朝一夕には成し得ないことです。「交流」という言葉はいかにも薄っぺらいものではありますが、一枚のひらひらの名刺を交換すればそれでOK、というものでは当然なく、人間と人間とが、その国籍や使用言語やバックボーンに関わらず、長い時間をかけて、徐々に信頼関係とノウハウを構築していくしかないものです。ところがその流れもひとたび堰き止められてしまえば元の強さの水流に戻すのは難しいことですし、それによって決定的に失われてしまうチャンスも数多くあるでしょう。彼らの(私たちの)人生は有限ですし、限られた幾ばくかのお金を手にして、この今の時代を生きるほかありません。


だからこそ、そうであるからこそ、私たちは選挙に行って投票し、固唾を呑んで速報を見守り、そしてその結果に新しい時代を予感して興奮し、信頼できる仲間たちと「夢」について語り合ったのです。


以上のような現場の様子を、新しく生まれ変わったはずの新政権の文部科学省には、ぜひ知っておいていただきたい。その上で、予算をいかに使うべきか、どこに配分すべきか、精査のうえで、「芸術」に関する予算配分について熟議を重ねてほしいと思います。もちろん、すべてを国に頼る、というような考えは、私自身も含め、現場の人間たちには毛頭ないはずです。しかし日本という国が、何を大事にするのか、何をどう考え、世界に向けて何をアピールしていくのか、今一度じっくりと議論を深めていただきたいと思います。私たちとしても、地を這いながら言葉を紡ぎ出し、そのような議論の末端に繋がれたらいいなと考えています。


2009年11月19日
藤原ちから

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