twitterは「社会」か?


ある人がtwitterもまた社会だと言っていて、なるほどその通りだなという感じはする。ただ実社会と少し異なるのは、それぞれのTL(見えているタイムライン)上にそれぞれの思うままの「社会」を体現できるところにある。


というと一見とても自由なツール/メディアのようにも思えるけど、実際には、実社会の権力関係がそのまま移設されているようなところもある。今のところまだ使っている人が多くないので、ジャンル的にも偏りがあるせいかもしれない。出版メディア関係の人は多いが、演劇関係はようやく増えてきたところで、映画関係者はほとんどその姿が見えない……などなど。音楽関係にしても何人かのアーティストがいるけれども、まだ総体としては少ない。で、母数が少ないということはそれだけ選択肢の幅が狭まるので、ふつうに知り合いをフォローしていくと、そっくりそのまま実社会が可視化されてしまうような気がして、それでイヤんなっちゃった、、、、という人もこれから増えてくるだろうしすでに実際いるはず。


実際、知り合いが別の知り合いを批判してるのが見えたりすると、あっちゃっちゃ、という気分になる。なにしろ物書き稼業なんて狭い世界なので、何年かいれば大体の人は知り合いになってしまうのだ。O森さんとかだったらそれを速攻RT(引用)して本人の目の前に晒して面白がるのかもしれないけど、それはO森さんが実社会においても十分すぎるほどの権力者であるから可能なのであって(笑)、ぼくのような一介の編集者ふぜいにはとてもそんなアクロバティックなことをする勇気はない。でもそうやってRTで晒してしまう作戦は、実は後腐れを残して陰でグチグチ言い合ってるよりもよっぽど良いことなのかもしれないとも思う。


ただ、twitterを通していろんな呟きが可視化されてくるというのは、昔よくあった、「通行人の考えていることが全部読める」とか「100m先の音も聞き分けられる地獄耳!」とか、そういうのに近いのであって、ちょっとこれは凄いことだなって思う。人間社会はここまで来たのだ。そこでは、いろんな人の脳内の言葉が洩れ出てしまっているので、ああ、人間はこんなことを考えてるんだな、ってのがわかって端的に面白い。みんな自重せず、そのまま思うままに呟いていただきたい。うざかったらフォローはずせばいいだけなんだから。


んで、そういう呟きを読むうちに、意外にみんなナイーヴだなと思った。少し前まで僕は、ナイーヴさというものを嫌悪していて、それは自分の中にもそういう部分があるからこそ、そのナイーヴさと訣別したいと思っていたフシもあるのだが、でもここ数日、特に比較的若い言論人たちのナイーヴな言葉を目の当たりにして、あ、意外にナイーヴって良いかもと思った。ひたむきな純粋さというか、大事にしているものがあるのだなって。そこにちゃんと担保となるような大事なものがあるのであれば、ナイーヴってのは思っていたよりも意外にしぶとく、残りつづける気がする。彼らとは仕事をしてみたいと思うし、たぶんすることになるだろう、という予感もある。


いっぽうで、比較的年長の人たちが持っている、図太さ、鈍感さ、たくましさ、といったものも見習いたい。そういったものを呑み込みながら、我々は太く、強く、たくましくなっていこう。



で、twitterで特にルールとかもないのでこれはあくまで提案だけど、みんなもっと「フォロー外し」を気にしないでバシバシやればいいんじゃないかと思う。TL(タイムライン)とは「編集された社会」なのだから、編集される(捨てたり足したりする)のは当たり前のこと。「フォロー返し」にしても過剰に気にして繋がろうとすると結局mixiと変わらんことになる気がする。「フォローしている数」も「フォローされている数」もあくまで暫定的なものであって、流動的なものなのだから、「フォロー外し」も「フォロー返し」も挨拶みたいなもので、別にそれをやったからといって嫌いになったとか人間関係を切ったとかではなく、単にブラウザ(いま見えているもの)を編集した、と考えるのが精神的にもよろしいと思う。少なくとも僕はそのような考え方のもとに「フォローしている人」を勝手に編集しつづけるので、みなさんあんまり気にしないでほしい。


あと、繰り返すけど年長の、すでにそれなりに実社会においても一定の権力を築いている人はわりとtwitterでもそのままの振る舞いをするように見受けられるけども、比較的まだ若い不定形の人たちは、あまり気にせずに虚空に向かって呟きつづければいいのではないかと思う。少なくとも僕はそうすることにする。ちなみにtwitter始めるまで、どこかで自分は情報のハブになれるのではないか、ならなければならないのではないか、といった気負いもあったけど、twitterのおかげでそれも消えた。情報のハブをやるのに向いている人ってやっぱりいるものだね。自分は世界に向かってハローでもおやすみでもいいからただひたすら呟きつづけよう。(緊急時のバケツリレーRTとかはやります)


それと最近は、知り合いではないけれども面白いことを呟いている人をフォローしはじめてみた。匿名でも面白ければ全然かまわない。面白い、というのは「何か面白いことを言ってやろう」的なものではなくて、本人のたぶんごく自然な呼吸の一環として、ふっと呟く感じ。それが面白い。そこには、その人の持っている何かが滲み出ていて、そういった呟きでTLが埋まっていくような感じにしていくことで、TL上でのポリフォニー(多声)が実現できる気がする。



さてそれで冒頭の問いに戻ろう。twitterは「社会」か? まあ、そりゃそうだろうけども、その時「社会」の概念は実社会のそれとはずいぶん変質しているはずだし、そのような「社会」のズレ/ブレこそが、我々の見る世界をグッと押し広げてくれるような気がする。「社会」とは決して平板で単一のものではなく、実際にも何重にもブレているものだし、だいいち、ぼくたちは別に、地球の裏側にいる人と仲良くなったっていいんだよ。