身体と物語に関するメモ


twitterより転載。


サンプルドラマターグとしての野村氏のブログを読んで、昨日の木村佐々木桜井トークの「スキゾとパラノ」の話を思い出した。ゆらゆらとキープ。分裂症と偏執病については神里氏も『ヘアカットさん』のアフタートークでしていたね。僕が最近「濃度」や「密度」にこだわるのも、確定されたアイデンティティによる自我というものが信じられないせいかもしれない。濃さとか密集とかでしかないでしょう、という。昨日のトークで新たに生まれた補助線は、80年代的なスキゾキッズへの夢が今ではもはやデフォルトとなり、分裂し組み合わされるパーツの類型に我々は「萌える」のだということ。我々は萌える身体を見て充分可愛いと思えるが、一方それだけでは満足できないでもいる。そこで様々な演出方法が試みられる。俳優に負荷をかけてみる、というのもそれ。チェルフィッチュの新作も新しい身体を模索しているのだと感じる。

RT @chelfitsch の発言××××××


萌えとジャパニーズヒップホップは相性が良かったのかもしれない。様々なものを組み合わせてポップにする。いわゆる「編集」と呼ばれる行為もそれだと思われて流通(流行)しているフシがある。新しいものを始めようとしても、すでにそれはどこかでやられたことである。その「似てしまう」宿命を、シネフィル的・文学的な参照系の重みを感じずにやってのける時に萌え(可愛い)とジャパニーズヒップホップ(カッコイイ)は便利ではあるのだが。だがこないだ九龍ジョーが言ってたみたいに、左ページと右ページのあいだに生じるパルプフィクション、そこに「淫する」という人間の業のようなものが重なってくるのだとしたら?そこに露悪的にならないギリギリのところで「淫する」ことのできる夢を生むこと。幻視を誘うようなそれを。あるいはノイズと呼ぶこともできるだろう。できるかな? やってみるしかないけど。この20年、物語が大きいか小さいかが議論の的になったけど、物語の大きさに関わらずそこにはノイズが生じ、かつそれがまったくレイヤー的レベル的に「下」でも「低」でもないこと、それをいちばんわかってたのはたぶん保坂和志だった。その保坂さん直系ともいえる磯崎健一郎は恐るべき物語力をもった作家として登場した。だがあの物語れる余裕…。その余裕のない身体、というものだってある。それがダメでクズだ、というふうにはしたくない。存在証明として。けれどもそこを「ワーキングプア」言説に直結させてしまうとすべてが台無しになる。なぜ台無しになるのか? たぶん存在証明にならないからだ。集団として、階級としての訴え、というのは政治的には有効かもしれないが、あるひとりの人間を救済することにはならない。

RT @tsuda の発言××××××


津田さんの上記発言はジャーナリストとして、という話かもしれないが、どんどんオープンに可視化されていく世界のただ中にあって、「到達できない場所とか人」を想像できているのはとても重要。(tsudaリスペクト)けれどもそれは、オープンで可視化される世界から離れるのではなく、まみれることによってこそ見えてくると信じている。忘れないようにしよう。この世界は実にくだらないが愛すべきものをたくさん孕んでいる。