今やってることが著しくうまくいかなくて鬱になる。ひどい。そもそも人生を考え直さないといけない(←松井周さんが指摘するとおり、黒沢清の映画だと車に轢かれて死ぬパターン)。クリスマスイヴの夜はずいぶんと内省的にものを考えた。来年からの仕事の仕方についてとか、そんなことを。けれどもそもそも、目の前のことがまったくダメだ。うーん。


これは今に始まったことではないわりと根本的な問題で、他人と付き合ったりする能力と引きこもる性質と、でいえば、私は前者もそこそこできてしまうほうだ。で、それは一見して器用で軽薄な人間である、と見られがちなのだが、たぶんコミュニケーション能力の高い多くの人がそうであるように、やんごとないこれまでの人生の経歴の中でそんなふうになってしまっただけで、つまり一種の病理の代償なのだ、としか思えない。だから、人見知りです、という感じでしれっとしていられる人が心底うらやましい。それは今までの人生で、人見知りでも生きてこられたということで、それは状況的に恵まれていたか、あるいはものすごい強さを手に入れたかのどっちかだろう。


ともかく、世の中のモードとか、狂乱振りとか、twitterのタイムラインとか、そうしたものから徹底的にある種の強度をもって距離をとらなくてはいけない。これに完全にまみれて編集者としてやっていくつもりならともかく、自分の中にはすっかりそんな気分は色あせているのだった。もう編集者という職業、というよりも呼称、に対して、自分は魅力を感じていない。そこでできることの可能性よりも、それによって生じる足かせのほうが今は大きい気がする。となると大きな一歩を踏み出さなくてはいけないのかもしれないが、差し当たってはそれに代わるような呼称が欲しい。何かないだろうか。


だいたい自分は倫理的に他人を情報の資源とか捉えきることができない人間で、その点において編集者に向いてないと思う。ただ前述の病理的コミュニケーション能力によって一見向いているふうに見えるというだけで、そこは勘違いしてはいけない。今までは勘違いでも生きていけたが来年からはもうそうした勘違いで自分や周囲の人間を騙し続けるのはやめよう。誤解のないようにいえば、仕事がイヤになったとかでは全然なくて、もっと徹底してそれに向かなければならない、という話だけど、まあどうとられてもよい。思えばこれまでも誤解の多い人生だった。ずいぶんと石を投げられてきたものだ。


とにかく来年からは、精神的な意味で「ひとりで生きる」ことを考えている。そのためには、悪人になったり、動物になったりすることも厭わないだろう。様々なものをばっさりと切り捨てていく、ということも求められてしまうのかもしれない。強さを手に入れるために。それを考えると今からすでに悲しい気持ちになるが、それをやらないで「いい人」のままだとこの先にいけない気がどうしてもしてしまう。


とりあえずこういうモヤモヤした部分を書いてしまわないと今やってることが手詰まりっぽいので書いた。これ書いたからってどうにもならないかもだけど。時間がない。たぶん今回は失敗だろう。ただの恥さらしだ。