チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』


昨日は横浜のSTスポットという小さな劇場で、チェルフィッチュの『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を観ました。全然うまくまとまりそうもありませんが、昨日ブログに書いたことと奇妙にリンクしていたというか、暗い世界からの使者、のような人間がいて、それが一見明るい世界を脅かす。その不穏な空気にきゅーっと押しつぶされるような気持ちになりながら、同時にそこに清々しい風通しの良さのようなものも感じて、これは誤解を招く表現かもしれませんが、とても快楽だ、これは快楽以外のなにものでもないと感じたのでした。とても面白くて、楽しくて、泣いたり笑ったりといった感情が濃縮されたような、集中した時間でした。


暗い世界と明るい世界を繋げること、それは幸福な人間と不幸な人間を均すこと、つまり格差を埋めるということ、でもない気がします。とはいえ、幸福という曖昧な尺度にとってやはり決定的に重要なのは、お金。それも幸せだのなんだのということを考えられるだけの最低限のお金にあるということは、やはりそう思います。それは、人間として生きていくうえでの最低限の体力、と言い換えてもいいかもしれないです。


暗い世界からの呼びかけは、ごくシンプルに「私を見て」ということに尽きる。でもそのシンプルな言葉をことほぐために、「わたしたち」は静かな時間を必要とする。




最近の演劇が(そしてたぶん演劇にかぎらず)、速度を必要としているのは明らかだと思います。少なくとも、速度の力を借りることで、観客をどこか別の場所へと連れていくための誘因力を得ている。ところがチェルフィッチュのこの作品は、まったく速度を必要としていませんでした。というよりむしろ、速度がもたらす幻惑とは別種の、速度を失った〈あいだ〉のような場所に萌すもの、を追求していた、あるいは信頼していたのだと思います。そこには静謐なエロスがあった。演じてるわけではない、だが演じてないわけではない、という役者の存在(もはや言葉と身体とに分割できない)のなんとエロティックなこと。


その〈あいだ〉の時間の中で、役者の中に満ちていくもの、引いていくものがあって、「わたしたち」はそれを観ていた。それは演劇というものの、演じるということ、観るということの観念をすっかり変えてしまうような、あるいはずいぶんズラしてしまうような、フィクションの作り方だったと思います。だけれどもそれはフィクションの基本中の基本とも言えて、そこにバス停があると言えばあるし、ブランコがあると言えばある。言葉と身体によって紡ぎ出されるセリフはゆっくりと染みて、時間の中でイメージを醸成する。


「わたしたち」は目の前にあるものを観るし、それしか観られないのだ、そこからしか始まらないのだということ(岡田利規の言葉でいえばperception)を前提にしている、むしろそれこそが倫理的であるとさえ考えている。そして、そのことは大事なことだけれども、いっぽうで「わたしたち」は目の前にある”かもしれない”ものを”見ない”し、その意味ではどうしようもなく「別人」であり、孤独に閉ざされた思念であり感覚であり、だからこの分断された世界の中で、より倫理的に生きて世界を快復しようと努めるならば(そしてそれは避けようのないことなのだが)、せいぜいそれをひらいて、他の人間の存在に触れようと掌をかざすことしかできない。そして、かざされた掌の向こう側に、「わたしたち」の姿を発見する。ところがそれは、鏡ではない。劇場は鏡ではないのだ。


その掌なり触角なりを観客の中に芽生えさせること(これも岡田利規の言葉でいえば conception)、そして劇場に〈あいだ〉の時間を出現させること。チェルフィッチュがやろうとしているのはそういうことかもしれない、と思った夜でした。