ツイッターを「辞めた」のか?


気にしてくださっている方もいるようなので書きますが、まず、特に大きな事件があったわけではないです。むしろどうしてこんなに事件が起こらないのか、と訝しんでいるくらいの日常です。しかし毎日なにかしら楽しいことを自分なりに発見しては喜んでいます。ありがたいことです。


で、昨日「エクス・ポ」の企画で野村くんと話してて、「ツイッターを辞めた」というのは嘘だと気づいた。ゼロになったわけではないです。プルサーマル・フジコのアカウントはあるし(コミュニケーションはできずにただ呟く機械のようなアカウントだけども)、そこを経由して情報は摂取しています。ただ、タイムラインで自動的に向こうから情報が流れてくる、という便利だが受動的な情報収集の仕方ではなく、「むしろ貪欲に、こちら側から情報を盗みにいく」という積極的な姿勢を自分に課したい、という感触はありました。ぼくは編集者であり、ある意味では情報屋であるので、情報に対して真摯に向き合うことが求められます。情報に疲れたり振り回されたりしている場合ではなく、それを上手に扱い、濾過し、何かを生み出さなくてはなりません。つまり誤解のないようにあらためてエクスキューズすると、「ぼくはツイッター否定派、のようなものではないし、むしろそれを積極的に活用するために自分のアカウントを手放した」ということになります。


「辞める宣言」のようなものはパフォーマンスではないか、というご指摘については全く仰る通りで反省する面もないではないですが、宣言するくらい追い込まないと意味がないと思ったのも事実です。ひっそり呟かなくなる、という生きているか死んでいるかわからない状態、というものはむしろ避けたい。これはいわゆる「ツイッター疲れ」のようなダラッとしたものではないからです。むしろ積極的にいかにネットというものを活用していくか、いかにこの時代を生きていくかという宣言なのですから。


最近、ツイッターをやっていない、あるいは距離をとっている、という人と話をする機会が多くて、その人たちの観てる世界のほうが気になるようになった、という理由もあります。ツイッターをアクティブに起動させている状態、というのは常にその呟き空間に対して脳や手が繋がっているという感覚がわりかしあろうかと思うのですが、そこのコネクトを一度あえて切断する必要が”自分には”ある、と感じたまでのことです。別にそれを現代社会の病理であるとかどうとか言うつもりはありません。単に人間が変わっていく、ということでしょう。ただ自分がその中でどう生きるかは問われます。


自分はプルサーマル・フジコという人造人間のようなものを作ってしまって、ここにもっと魂を込めていかなければというか、燃料をいろいろ投下しないといけないので、他人とのコミュニケーションに割く時間を極小に減らして、より様々な資源(リソース)に触れたい、という気持ちもあります。フォローしている/されている数が数百人という状況は、自分としてはあまりに適切に世界が投影されてしまうというか、いや、そうではない世界はもっと広い(あるいは狭い)ということを頭ではわかっているけれども感覚的・身体的にたいへん誤解や思い違いを生みやすい状況であるということも薄々感じていました。この状態でコミュニケーションを多方面に向けて繰り広げるよりも、自分は何がしたいのか、どこに向けて言葉を届けたいかということを、プルサーマル・フジコという人造人間の存在、およびそれが書いたもの(例えば「ふつうの女の子」というミニコミに寄稿した文章や、今日配信されるであろうワンダーランドに書いた鳥公園の劇評)を通して顕わにされてしまったので、ここで思い切ってそちら(……)に舵を取ってみよう、と思った次第です。


ではそちら(……)というのがどっちなのか? ここでは書きませんが(書けませんが。つまり説明できるものではないですが)、プルサーマル・フジコが書くものを通してそれは明らかになっていくだろうと思っています。