「ニッポンの小説はどこへ行くのか」文學界4月号

今月の文芸誌の目玉企画とも言える文學界4月号の11人大座談会「ニッポンの小説はどこへ行くのか」。メンバーは岡田利規川上未映子車谷長吉島田雅彦諏訪哲史田中弥生筒井康隆中原昌也古井由吉山崎ナオコーラ、そして司会が高橋源一郎。どうしてこのメンバーなのか、なぜあの人が入っていないのか、という突っ込みようはいくらでもあるが、50年前の大座談会は13人だったのだから、そもそも2人少ないのだ。*1ただひとつだけ、この人選についてどうしても口を差し挟みたくなる箇所がある。

 ただ一人、評論家として出席した田中弥生の発言を聞いている時にいちばん、ぼくは、五十年の時の流れを感じた。小説家の役割ではなく、評論家の役割がすっかり変わってしまった五十年だったのかもしれない、とぼくは思った。


これは「「文学」の人たち 大座談会後記」と題された高橋源一郎の文章の中にあるものだけれど、うーむ。たしかにこの座談会は評論家の変化を感じさせる仕掛けになっていますが、他にも声をかけるべき人、かけたら面白かった人はいるはず。




50年前の座談会との大きな違いは、「文学」という概念に関して共通項というかそれこそ共同幻想があったと思うし、それについて議論を闘わせることもできたんだろうけど、今は「文学」という概念がもはやアプリオリには成立しないので、それぞれの思う文学観を語ったり、小説の作法や書き方(行為)や小説家としてのスタンス(態度)について語るところからはじめるしかない。そのこと自体は、むしろ「文学」の持つイメージに広がりが与えられたとも言えるからまったく悲観する必要はないと思うけれども、50年前は「文学」がたしかにまだ生きていて、その概念に真剣に命をかけていた人も存在したし、その言葉を口にするだけで語るべきことが生まれてきたりもしたのだ、という事実はある意味では新鮮だ。50年前の高見順が憤激しながら呟いたような以下のような発言は、もはや誰の口からも聴くことができないだろう。

高見 行為とか態度ではないんです。文学です。

*1:扉の写真を見ても(きわめてやる気のない)中原昌也の隣に空席があるので、この企画自体、空位である2人を意識していないわけがない。