3.22「全共闘世代VS自分探し世代」@阿佐ヶ谷ロフト

3月22日に行われた阿佐ヶ谷ロフトでの「全共闘世代VS自分探し世代」のイベントについて、ロフトの平野悠さんがブログに「反省」を記しています。イベントの模様を収録したDVDを見直しているほどで、いかに、平野さんがこのイベントに力を入れていたかを伺い知ることができます。
http://shinjukuloft.com/blog/lofta/archives/200803/26-1325


そこに出演者だった塩見孝也さんのHPからパクってきたという文章が載っていますが、「パトリ」を観てもその文章は見当たらなかったので、大きな引用は差し控え、実際にイベントに参加してみての雑感も含めて個人的な見解を書きます。(F)




この夜のイベントは世代論が前提だったので、そのような話になったのはいたしかたない面もあります。それに(おそらく)塩見さんが書いているように、世代を越えて「話が合う」こと自体はよいことでしょう。が、塩見さんご自身が「僕と平岡さんは、団塊の世代を代表し、終始一体的でしたが、ジュニアー世代は、意見相違が見られる時もありました」と振り返っていることに象徴されるように、70年代生まれの世代がすべて同じような問題意識を抱えていて、同じ意見を持っている、ということはありえません。これは、昨今の「ロストジェネレーション」関係の言説についてほとんど遺憾と言ってもいいくらいに思うことで、だからこそあえてここで強調しておきたいのですが、赤木さんにしても雨宮さんにしても、肯定的に捉える人もいればもちろん批判的に捉える人もいるわけです、同じ世代であっても。だからたしか鈴木謙介さんが最後のほうで言ってたみたいに、「とりあえずこれと思うところに与すればいい」(正確な発言ではありません、あしからず)という態度をとるしかないというのが、良くも悪くも若い世代の現状であるような気がします。


つまり私が言いたいのは、いわゆる「ネオリベラリズムへの抵抗」という形で全共闘世代と今の若い世代はつながれる、といった(主に上の世代からの、時としてオルグを伴う)論調は世代論としては物足りないし、むしろ(1977年生まれの私がいちおう属しているのであろう)若い世代に対する誤解を招きかねない、ということです。世代論をするのであれば、むしろ訊いてみたいのは、今の若い世代がとりあえず何かを選択するしかない、この「とりあえず」という感覚、これをかつての全共闘運動に関わった人たちが持っていたかどうか、です。(たぶん、持っていなかったのではないかと推測しますが、どうでしょうか。)塩見さんが、70年代生まれの世代との対話を「自分の子供たちと議論したことになります」と言うならば、親と子のあいだで交わしてほしいのは、この「とりあえず」の感覚についてどう思うかです。世の多くのオヤジさんたちは、近頃の若いもんは腑抜けてなよなよして酒も飲まなくて確固たる意志も生きる意欲もなくて、という程度の認識であるだろうとは思いますが、おそらくはそこで、世界の見え方が全然違っている、のでは? そこで、噛みついてきてくれる若者がいて、あるいは同じ方向をむいてくれる若者がいて、うれしい、という気持ちもわかりますが、もしほんとうに若い世代との、子との対話を望むのであれば、多くの、噛みつきもせず、オルグもされない、(彼らから見れば)沈黙している若い人たちが何を考えているのか、先入観をとっぱらって観てほしい。でもそれはかなり難しいことだろうと思います。本気で他者との対話を望むのであれば、自分という殻もまた安全ではいられないのでは?


全共闘世代のおふたりはマッチョと言ってしまってもよいほど強固な思想(イデオロギー)を持っているのが強みだと思いますが、あの場でおそらく唯一冷静だった森山裕之さんが、ある言葉によって彼らのその強固な殻の薄皮を剥ぎ取って芯を露わにさせてしまいました。それに気づいた人がどのくらいいたのかは私の知るところではありませんが、全共闘世代の思想(イデオロギー)の強固さは、絶対に揺るぎようのない芯*1のようなものに拠っている。しかし1977年生まれの私は、その芯を否定します。というより、これはほとんど私の意志うんぬんの範疇を越えて、今の時代に生きる以上、否定せざるをえません。そんなものないし、持てないよ、っていう。


全共闘世代の強み(であると同時に限界)は、彼らのいう「自己批判」が決してその強固な芯には触れないことです。けれども若い人は、そのような芯だけを後生大事にとっておくことはもはや不可能であり、そのような芯が存在しえないところから何かを始めるほかない。そこにこそ、若い人の喜怒哀楽があると思います。これは楽観や悲観、希望や絶望といった基準とは無関係に、もはやデフォルトであるはずです。



P.S.
とはいえこの日の塩見さんは、終始なんとか若い人の話を聴こうという姿勢があって、こういう言い方はむしろ若輩からするのは失礼かとは思いますが、非常に好感がもてました。塩見さんの態度が、このイベントを良い場にし、成功させたと思っています。またここでは「全共闘世代」という呼称を採用しましたが、同時代の同年代であっても、さまざまな価値観を持った人がいたことは間違いないと思います。世代論はあくまでも、時代や状況に対する認識を固めたり(あるいは逆にほぐしたり)するために使われるものであって、それによって個々人のパーソナリティを判別したり理解したりするものではない、というのが私の見解です。

*1:私の見立てでは、この芯はつまるところ「暴力(を行使できる可能性)」と「精液」という、きわめて男根的なものに行き着きます。60年代の運動から袂を分かつようにしてフェミニズムの流れが生まれた、というのは気持ちはよくわかるという気が、この夜はしました。