顔を出す/隠す


ちょっとマジメな話です。今日の朝日新聞書評欄が編集者本の特集だったんで、ちょっと気になったんですけど。編集ってことでいうと、「情報がフラット」とか言われている時代だからこそ、そこになんらかの文脈なり物語なりを見いだす役目が編集者には(もしかしたら批評家にも)あるのかなーとは思ってます。でも文脈や物語に過剰に意味を与えすぎると溺れてしまうというか、ただの捏造になってしまうので、むしろ最近はそうした衣装(意匠?)を身にまとう前の、ごつごつした素材やその周囲にまとわりつく雑然としたものに個人的には惹かれています。まずはそれらをきちんと摂取して伝えることが、編集者としての職業倫理に即したことでもあるし、「フラット化」へのひとつのカウンター(回答)でもあるのかなあと思うんですよ。


ただし、その意識がストイックに傾きすぎてしまった場合、(編集者も含めた)語り手や作り手の顔が見えなくなってしまう、という問題もあります。顔が見えるのが無条件でいい作品だ、とは全然思いませんが、編集者という、顔を隠す黒子でありながら時には押し出される微妙なポジションにいて、どこらへんに身を置くかということは考えながらやってます。肉弾戦だけじゃなくて、やっぱりどこかで魔法も使わないとってことも考えるし。


路字」1号ではそのあたりを意識して署名原稿を仕上げました。かなり試行錯誤して、最終的にある方法論に辿り着いたのですが、さてどうでしょう。水曜の阿佐ヶ谷ロフトのイベントで最初の配布をしますので、感想など聞かせていただけたらと思います。