新聞記事とか


今日の東京新聞朝刊の都内版に、路字の記事が出ました。こないだ取材受けたやつ。で、こうして取り上げてくださるのは嬉しいのですが、ええとまず、情報が間違ってます。編集長は仲俣暁生であって金子賢三ではありません(金子さんは発行人)。細かいことだと思われるかもしれませんが、体制としてはすごく考えてやっていることなので、困ります。あと

街を愛する住民有志らフリーペーパー創刊

って書いてあるんですけど、これ予想通りというか、全然意図と違うというか、だって取材の時にあれだけ口をすっぱくして「街を愛する、とか書くのだけはやめてください」って言ったじゃん!(笑)*1 かぎられた文字数の中で何かキャッチーにしなきゃ記事にできないってのもわからなくはないけど……。でもポイントは、「街を愛する」とか言えないけれどそりゃほんとはそこに愛がありますよ、っていうその「距離感」だっていう話をさんざんしたのに、それがまったく反映されてないってのはどうなんでしょうか。とはいえ、誤解を含みつつも「路字」にアクセスできる回路がひとつ増えたとは思うので、東京新聞さんには感謝します。*2(それにしてもなんかこの写真の「住民有志」の人たちの目、きらきら輝いてるなあ〜。知らない人たちみたい)


でも余計なお世話かもしれませんけど、これまで新聞というメディアはたくさんの人たちに取材をしてきて、それを「わかりやすい」形で提示するために、そこで聞いた話の大部分を記事にしないで捨ててきたわけじゃないですか。それってすごいことですよね。ゴミの宝庫ですよね。でもその膨大なゴミの山の中にこそ、真実の欠片みたいなものがあったりするのではないですか。


イデア@芸大

さてさて。そんなことよりも、新しいメディアをつくっていこう、という新進気鋭の人たちはいるわけで、明日「アイデア」編集長の室賀清徳さんの講義が東京芸大であって、そこに「路字」の加藤賢策さんや「nu」のそして「エクス・ポ」の戸塚泰雄さんがゲストで出る関係で、もしかしたら僕もちょこっと喋るかもしれません。まあ、ライブで目の前で喋れば、新聞よりはいくらか信憑性や信頼関係が増すであろう、とは思うので、ちょっと楽しみです。ただ僕は人前で話すに値しない人間である、といった自己卑下なり自己嫌悪の意識がものすごく強くて、自分が喋ることで誰か他の人の喋る時間を奪うことが許せないから、最初はお断りしたんですけど、なんかこの東京新聞の記事のおかげでちょっとやる気になりました。

 

*1:さらに言えば「下北沢の魅力を見つける」という言い方にも最近は違和感があります。街/町に固有の魅力はたしかに存在するし、最初はそれに惹かれて近づくのだが、長く同じ場所に出入りしているからこそしっくりくる、という要素もあり、時間の経過と共にそうした身体性のほうが重要度を増してくる。その結果、「町の魅力」なるものは語り得ない、ただそこに長くいればわかるのだ、という状態に陥りやすいと思います。時にそれは「町の魅力を伝えたい、でも住まない人にはわかりえない」といったジレンマにもつながる。さて……。ここで問題になってくるのが今回の記事にも使われた「住民」という言葉で、それが必然的に内包している「住めばわかる」「住まないとわからない」という特権性というか、「内」に属していることで生じる権力のようなものを自覚しないと、外部の人とある程度より先の話ができないと思う。そういう人がいてもいいとは思うが(40年間ずっと住んでるとかだったら納得もできるので)、でも少なくとも私はそうした権力に安易に与したくないので、できれば(法的な権利義務関係をとりあえず除いては)「住民」を名乗りたくはない。アイデンティティを規定しないような、なんだかよくわからない浮遊的な立場でいることが、戦略的にも重要なのである。だから「路字」は「住民の作ったフリーペーパー」ではないと私は考える。たしかに中心メンバーはたまたま下北沢の近くに住んでいるが、そして結果的にすぐに会えて便利ということはあるし取材もしやすいが、あくまでもそうした物理的な問題に過ぎないのだ、という立場で私は「路字」を考えている。

*2:同居人たちには好評でした。