快快「ジンジャーに乗って」


こないだ観て、すごく感動して、もう絶対オススメしたい! と思ったけど時の流れるままに数日が過ぎちゃった演劇。こんどの日曜まで王子小劇場で演ってるんで、まだ観てない人は、ぜひ行ったらいいと思います。「小指値」改め「快快(ファイファイ)」の「ジンジャーに乗って」。
http://www.faifai.tv/


ネットカフェに泊まるしかないような、働いたら胃が痛くなってしまうような、いわゆる、よくニートとかネットカフェ難民とか最近言われているような人たちが主人公で、そしてテーマが「無駄」というからには、まあ今時の、ありがちな、ということになるのかもしれないんですけど、そして実際、話はグルグルと同じところを回るし、空間的にもグルグルと同じところを回るし、だから出口がない、もう八方塞がり? 未来ナシ! みたいな、わーもうダメ、みたいな、そういう状況ではあって、そこで仲間内の連帯(つながり)しかないよね! お前先に抜けたらダメだよ、みたいなそんなケツの穴のちっちゃい話に見えなくもないんだけど(口悪くてごめん、昨日そんな映像観たからだよきっと)、実際に観てみて、まったくその手の物語にありがちな閉塞感を抱かなかったどころか、切ないけどなんか溢れてくるものがある(泣けるとかではない)というのは、まったくもって不思議だなーと思ってたんです。


で、それはもしかしたら、彼ら、演じている彼らというか彼女たち? が若いから、元気いっぱいだから!? ってこともあるにはあると思うんですけど、そんでミュージカル調のところがとても楽しいから、ノリノリだから、ってこともあるには違いないんですけど、どうもそれだけだと納得いかないというか、ラテン系だとか、ノリがいいとか、そういうことだけでもないと思うんです。じゃあどうなのよー、なんなのよー、と謎だったんですけど、それで快快のシノダさんのブログみて、次の文章読んで、はっと思いました。

http://shinoda.koyubichi.com/?eid=565088

まじめに遊ぶ、とゆーのが、いかに体力のいることか
それから、まじめに遊ぶからこそ、どこまでも楽しくなれる、
ということを証明したいし、何か変わると、世間知らずな意味ではなく、思っている
愛の存在証明はむずかしいけれども、愛がなければ、私はやかましいどら、騒がしいシンバル、逆説的にならば、いくらでも証明できるでしょう
愛では埋められない何かは世の中にはたくさんありますけれども、それでも愛がなければ、目の前にどんなものがあっても、それはないのと同じこと
無視してしまえば、ないってことにする技は誰でも簡単にできる


がーん! バイブル(聖書)ですよ、愛ですよ。


なるほろり、そうだ! 彼女たちの演劇には愛があるんだ! とこれ読んで思いました。シノダは本気だ……快快はマジだ……と思ったんです。「無視してしまえば、ないってことに」できてしまう、そういう世の中に生きていて、そこで、いくらでも自分の世界に閉じて、まわりを他者を遮断して、ってことができる中で、でもわざわざ演劇をやることの意味というか、彼女たちの演劇はすごくミニマルな世界を描いているのに、どっかで開いてる、その開いている穴は愛が突き破ったのだよ! というようなことが、走馬灯(見たことないけど)のように頭の中を駆けめぐりました。



全然無理してないんですよね。でもすごく本気だし、すごく一生懸命だし、すごく努力してると思う。でもそれが完成している。彼女たちの本気や一生懸命や努力が大事なんじゃなくて、他人がお金を払って演劇を観るということの意味をちゃんとわかっていて、エンターテインメントとしての完成を成し遂げている。だから、この人たち若いからってナメたらいかんぜよ! と思います。表現、って言葉も言っちゃえば陳腐、チチンプイプイだけど、それでも言えば「表現」ってものに本気で取り組んでる人たちのことは、やっぱナメたらいかんぜよ! と思うのです。人目に晒されることでブラッシュアップされていく世界で彼女たちは生きている。それがもう、これほどまでにすがすがしいとは! とりあえず下の映像を観て何かを感じる人は行ったらいいんじゃないかな!(この紹介の仕方は激しく間違ってるかも……。でも実際に劇を観ればこの意味はわかります)




ポップで愉快で切ないエンターテインメント、快快「ジンジャーに乗って」は今度の日曜まで! 見逃すなー!!