作り手が語るということ


http://www.excite.co.jp/News/entertainment/20080610121100/Variety_20080610005.html
の記事によると、三谷幸喜の映画「ザ・マジックアワー」が興行的に上々の滑り出しのようで、それは三谷幸喜自身がいろいろなメディアに「過剰露出」したことが良い効果をもたらした、とのこと。その分析が正しいかどうかはともかくとして、そしてメジャー産業であることを考えると一概にいろんな物事に援用できるとは思わないけど、ひとつ前々から思っていたのは、もはや今の時代は、作り手が、自分のつくった作品について語らないと話題にならない/発見されない/評価されないのではないか、ということです。


それは、批評が機能していない、という根深いけれどちゃんと考えるべき問題*1もあるだろうし、読者や観客が自分自身の手で良い作品/作品の良さを見いだすことができなくなっている*2、ということもあるだろうし、さらにブログやSNSでの口コミ的な評判に関しても、作り手が自ら語ったほうがグラスルーツ的&ウェッブ的な回路に乗りやすい(コピペや引用もされやすい)、といったメカニズムもあるような気がする。


個人的には、「見る人が見ればわかる」という感じで誰かに評価されることを信じていたいし、「言わぬが花」「言わないけど察してくれ」みたいなのが粋だっつーのもわからなくはない。さらにいえば、作り手が作品のことをすべてわかっている、などとはまったく思わないし、むしろ作り手の言うことなんて信用できるか、みたいな気持ちもなくはない。でも本来目利きでもあり、「ふるい」としての役割を果たしているはずの出版社なんかでも、時折、きちんと選別する、つまり良いものは残して悪いものは捨てるといった良心が欠けていると思われているようなところがあって、それも単に商業主義に走ってるとかだったらわかりやすいんだけど、そうでもなく迷走してなんかよくわかんないというか、ぶっちゃけ惰性でしょ?みたいに思うこともなくはないのであって(いやみんな必死だとは思いますけど)、そうなるとなんかもう、ほとんど単に、情報の洪水みたいなものが轟々と流れていて、そしたら書店の棚でもランキングとかしか見ないしyahooとかの巨大なポータルサイトの記事しか見ません、みたいなふうに多くの人が認識してたって不思議ではない。そしてそれは、受け手が単純に無知である、知らない、ということだってある程度(私自身が無知であるってことと同程度に)はあるかもしれないけど、たぶんそう簡単なことでもなく、それ以上に恐ろしいのは、たとえば「出版産業なんてしょせん商業主義だよね」みたいなことを諦めとともに受け入れてしまって、つまりは良心的に仕事をしている人たちの存在は見えなくなってしまって、その上で受け手の側も功利主義的に「売れてるものはハズレがない、でも超素晴らしいわけでもない」的な判断で長いものに巻かれていって、それで満足しているわけではないけど満足したことにいちおうしておこう、みたいな、そういうぬるい感じだったらヤだなあって思うわけです。


だとしたら徒手空拳というか、ちょっとドンキホーテ的な愚かさも感じないでもないけれど、とにかくいちいち、「これ、良いよ、ヤバいよ」と口にしたり、ことあるごとに ネット空間に挑発的なテキストを送り込んで行く、あるいは別な(もちろん非暴力的な)手段で顕現する、といった行為もけっこう大事なのかもなって気が、まあ今さらながらに(全然新しくないけど)する。します。もっといえば、いきなり巨大なものを大向こうに敵に回してもそれこそドンキホーテだから、とりあえず数十人、いや数人を相手にするような小さなことであっても、繰り返しつづけていくことが、良いものを残す/存続させるためには大事だと思うのです。そしてここ数年で、いやここ十年で得た実感としては、リアルな場で二桁の人間を相手にすることができれば、それはそれでちゃんとひとつの「出来事」として成立しているという(独りよがりではない)実感が得られるような気がする。

*1:でもこれって十年くらい前の「批評空間」にもまったく同じようなタイトルの座談会があったりするんですよね。たとえば96年6月、第二期10号の共同討議「『批評』の場所をめぐって」大杉重男福田和也山城むつみ柄谷行人とか。あとこっちは確認してないけど第二期20号にも「いま批評の場所はどこにあるのか」という東浩紀鎌田哲哉福田和也浅田彰柄谷行人での討議があったらしい。

*2:先日の仲俣暁生さんが出た「クローズアップ現代」の「ランキング依存が止まらない」もまさにこの話だったけど。