続・ハイバイの「て」(未完成)


かつての上司に演劇狂いの人がいて、東京に住んでるわけではないから週末に一日3本くらい固め打ちで演劇を観るという生活をここ何年も地道に(しかし凄まじい投資のもとに)続けていて、最近ではどうも少しずついろんな媒体に演劇評を描き始めているらしいその人が、明日ハイバイを観に行くと言っていてたぶんシモキタあたりで会うのでそんな話もできたら楽しいと思う。


ただ昨日、ハイバイの「て」はとりあえずオススメ! みたいに簡単に書いちゃったけど、観ようによっては一昔前の演劇に逆戻りしただけ、と見えなくもないかもしれないし、実際観劇後に何人かで話したかぎりではそのような見方も存在した。何かものすごく新しい手法を用いているわけではないから、奇抜なものを求めて観劇すると物足りなく思う人もいるだろう。とはいえ私としては、決して「古いものへの回帰ではない」と強調しておきたい。




(だからこそこのエントリーを書いたわけですが、ちょっと読めるような段階にいたらず。尻切れとんぼですみません。やっぱり具体的なことが書けないのは面白くないなあー。ちなみに観劇直後に人と話したときには、他の演劇はもちろん、映画や小説の話もたくさんしたけれど、このエントリーではそうした他の作品を参照した記述を禁じました。いや、ハイバイのこの劇自体は、ものすごくいろんな参照系を想起させるものだったのですが、なんかそれを今書くのはとりあえず禁じてみようと思って……まだ公演も残ってるし。さらに作品内の具体的なエピソードに触れることも禁じたので、めっちゃ抽象的な話になってしまいました。がくり)






【以下はあくまでもメモと考えてください】


少なくとも今回のハイバイの「て」という公演は、「演出家である岩井秀人のアタマの中身が先行していて(明確なメッセージがあって)それを役者たちが演じている」という次元にはなかった。単にアタマの中を外に出すだけでこんなことは描けないはずだ(この脚本は正直なところ驚異だった)。もちろん、だからといって演出家が一切のコントロールを放棄しているわけではないし、それどころかむしろこの作品は作り手によって計算されつくしている。ではその時、「て」という作品における役者たちひとりひとりには、どれほどの自由が与えられているのか?


演出家の意図と、役者たちの身体とのあいだに、かならず起きるであろう葛藤を乗り越えていくのは、稽古というプロセス抜きにはありえないだろう。ただ現時点で直観的にいうならば、観劇後に役者の肩を叩きたくなったのは、たぶんそこに私が自由な身体を見たからである。昨夜の役者たちのイメージを反芻してみても、やっぱりそうだと思う。彼らは自由だった。




ではなぜそう感じられたのだろう。これから観る人の興をそぐといけないので劇中の具体的な話には現時点では触れないが、あるシーンが強烈に私の目に焼き付いた。それが目を貫いて脳髄まで届いて、本来見えないはずのものが見えた気さえした。そこには「語られなかったものたち」が無数に感じられたのである。それは、単に事実としてあったけれども劇中では語られなかった、ということではなく、ありえたかもしれない無数のパラレルな可能世界というものの凝縮した姿を、一気にその瞬間に見せてくれた。おそらくこのことに、演出家は意識的であったはずである。


私はそこに、社会を超越した世界を感じる。それは「語られなかったものたち」が存在する領域である。ついでにいえば、近年、さまざまにありうる形態のひとつにすぎない社会がほとんど世界と同一視されていて、それがある種の息苦しさを生み出しているような気がするのだが、それは「語られなかったものたち」への想像力が奪われ、可視化されるものだけが世界の全体であると誤認させられるところに端を発している気がする*1。経済的な、あるいは他の理由により、たとえ属する社会から離脱することが不可能であったとしても、それを包み込んでいるメタな世界を感じることができたとすれば、その息苦しさはいくらかでも解消されるのではないか。世界に生きる個々の人々(この場合の役者たち)は、目の前に設定された「こう演じなければならないという役割にはめ込まれた自分」という枠組みから身をズラす術を持ちうるように思う。その可能性に私は自由というものを感じる。




もっとも、世界という言葉は容易にセカイへと転化するだろう。演出家や小説家や映画監督など、ありとあらゆる表現者もまた「想像する人間」でしかない以上、程度問題はあるにせよ、いつだって世界はセカイになるしまた世界に立ち戻ったりしながらそこを往還している。ただし、セカイという言葉はセカイ系といった文脈で揶揄されることが多いが、私はたんに世界のほうがセカイより上位にあるとは思わない。時には現実の世界から脱皮して妄想のセカイに出口を求めながら、自分が現に属している世界を更新していく、ということもあると思う。つまりセカイが世界に力を及ぼすということがあるはずだ。


今、最前線にいる作家たちというのは、この世界とセカイの往還の中を生きている気がする。すでにある現実の世界を作家というフィルターを通してフィクションとして生み出す、というのが近代の基本的な土台であったとするなら、蓄積されたデータベースと個人の妄想とが、共通の基盤を失ったままに絡み合うといった中で創作をするほかない現在の作家たちにとって、フィクションとは、世界とセカイの軋轢の中から生まれてくる怪物のようなものである。ハイバイの今回の演劇は、一見して優しい物語であったかもしれないが、そこにはたしかに怪物が存在した。そこがスリリングだったのだ。(以下宿題)

*1:言わずもがなではあるが、今夜の「文化系トークラジオLife」のテーマは当然意識している。