保坂和志「東京画」と写真


時間が前後しますが、吉祥寺の百年で保坂和志×大竹昭子の対談を聴きました。思わず質問をしてしまって、さらに終わった後で保坂さんの話を聴く機会を得ました。自然と話は「東京画」のほうに向かい、例の夕涼みの老人について訊こうと思ったところ、逆に保坂さんのほうからあの老人の話が出て、それくらいもしかしたら、あれは保坂さんにとっては印象的な人物(光景)だったのかもしれません。あの近くで一軒家を借りて友人たちと暮らしているんです、という話をしたら、今度ぜひ見学させてよと言われて、僕としては全然いつでもオッケーなんですが、はたしていつになることやら。まあ、気長に待ちます。


おそらく「東京画」の話に向かったのは、あれが保坂さんの作品の中でもっとも写真に近い小説だからではないだろうか。写真であれ、小説であれ、あるいは映画であれ、もちろんそこには方法論の違いはあるのだけど、描く者がいて描かれるものがあって、それが作品になるという意味では、共通するものだってきっとある。そこで僕が考えるのは、写真が写真である必要、小説が小説である必要、映画が映画である必要、ということで、それはまさに保坂さんの小説論にもつながるところがあるはずなのだ。そういえばこれとまったく同じことを、最近「エクス・ポ」がインタビューしたとある人物も別の言い方で表現していた。


ほんとうは保坂さんとはピエール・ペローの話がしたかったのだが、それは保坂さんが持ってきて見せてくれた「九十九里の写真」が漁師を写したもので、その光景がまさにペローの描く漁師の世界と通じ合うように思われたからである。ペローの映画の魅力(といっても僕は2作しか観ていないのだが)、少なくとも例えば『世界の存続のために』の魅力は、ペロー自身がカメラの中に収まることは決してないのに、そのカメラ自体はペローの存在なしにはありえないという点にある。そんなの当たり前じゃないか、と思われるかもしれないけど、実はこのような位置どりをとるのは、とてもとても難しいことなのである。



この人の閾 (新潮文庫)