ラリ夫とジダンと資本主義


北京五輪でのサッカー日本代表の戦績は三戦全敗で惨憺たるものだった。とはいえ、日本のサッカーにおける五輪の位置づけが「A代表予備軍」の様相を呈していることもあって、観ているこっちとしてそこまでダメージがあるわけでもない。ただやはり最後まで釈然としないものが残ったな、というのが残念ではある。


問題はラリ夫なのだ。ラリ夫というのは10番の梶山陽平に私が勝手に付けてる渾名で、なんだかいつもラリった顔でプレーしてるからそう呼んでいるのだが、FC東京からはラリ夫と長友が五輪に選出されていた。長友のほうは本格的には今年デビューしたばかりだし、もともとアグレッシヴな性格だからまあそんなに心配してないのだが、ラリ夫は意外にナイーヴなので、今回の結果で落ち込むのではないかと、私はひそかに心配している。


以前はゲームの度にパフォーマンスの質が変わり、観ていて危なっかしいことこの上なかったラリ夫も、今やFC東京ではチームの大黒柱として安定したプレーを見せるようになった。その人を食ったようなプレーからか、「やがてはジダンになる」とまで言われているけれど、さすがにまだまだ世界最高峰の領域にはほど遠い。ジダンはほとんど神に近いので、ラリ夫がそうなることはないだろうけど、もし仮に人間の範囲内でジダンに近づくことがありうるとしたら、今のラリ夫に足りないものはなにか、と考えると、それはサッカーを楽しむ気持ちだと思う。というかこの「楽しむ」という感覚は、反町ジャパンなり日本代表なりにも決定的に欠けている気がする。そして、やたらと「日本代表候補入り」がトピックスにあがるようになってしまったJリーグにも、やっぱりそれが欠けつつあるのではないか。




Jリーグの試合を、とりあえずFC東京のは毎週観ていて(できるだけスタジアムで観ていて)、さらに他の試合もダイジェストだけは全部観るようにしている。するとなんとなく日本サッカーの現在陥っている状況のようなものが感じられなくもない。思い切りのよさが欠けつつあるというか。それは全体に守備的なサッカーが主流になりつつあることと無縁ではない。サッカーというものは今やきわめてシステマティックになりつつあって、たしかにその完成度を観ることの美意識もなくはないのだけど、でも基本的には、シンプルに考えれば、サッカーはゴールにボールを突き刺してナンボだろうと思うのだ。や、もしも突き刺すという表現がいかにもファルス的であるというなら、ゴールのラインを越える、ということでもいいのだけど、でもやっぱり突き刺すくらいの勢いがないと観ていて震撼させられないと思われる。


今、日本のサッカーは変わりつつあって、というのはオシム以後、「人もボールも動くサッカー」のような標語があちこちで言われるようになっていて、それは端的にいえば、まず走ることのできる体力を個々が備えた上で、守備と攻撃においてシステムを理解した上でパスワークを中心に相手を崩していくようなサッカー、ということになる。その理想を掲げるということは、さらに上のレベルのサッカーを目指すという点では重要なことかもしれない。そこに特に異論はない。だけれども、目的が勝つことである、というのが良くも悪くもスポーツなるもののシンプルな真理なのだとしたら、そのためにはゴールを奪わないことには話にならないのであって、つまりベクトルは相手ゴールにこそ向くべきなのだ。横パスをして相手を揺さぶったり、サイドに広く展開するといったことは、あくまで直線的な攻めだけでは簡単に守られてしまうから変化をつけるのであって、そうしたパスやサイドへの展開のためにサッカーをやっているわけではないのである。


もちろん選手も監督もそんなことわかってるはずなのだが、試合になるたびそうなってしまうのはなぜか? ということはほんとにこのところ真剣に考えているのだが、やっぱりなにか「サッカー」というものが、過剰に余計な意味を帯びつつあるせいでわけがわからなくなっているのだとしか思えない。例えばテレビ朝日が日本代表の試合のたびに「絶対に負けられない闘いがここにはある」というコピーをつけているのなんか言語道断で、意味のないプレッシャー以外のなにものでもない。というのも、誰のために負けられないかといえば、それは資本のためなのだ。


スポンサーがいて、メディアがあって、そこが消費者として想定する日本代表サポーター(ここではほんとの意味での「サポーター」をさしてはいない)たちがいる。彼らのために負けられない、というのが、ナショナリズムの仮面をかぶった資本主義の要請だとすると、いったい「サッカー」はどこにあるのか? プレーヤーにとってのサッカーはどこにあるのだろうか? 彼らはしばしば「応援してくれるサポーターのために頑張ります」という言葉を口にする。公式発表的なものに近づくほどそうなってくる。それは、まったくのウソではないだろう。けれども、まったくのホントでもないだろう。彼らは、彼らのためにプレーするのである。それは彼らの家族も含めた生活のためでもあるし、もしかしたら生活のためということを越えて、彼自身のために(そしてそこまでいったら「彼」というものを越えてしまった何かのために)プレーするのである。


はたして資本主義的なものの介入のなくなった、純化されたサッカーというものは存在しうるだろうか? といえば、もちろんそれは不可能だろう。だけれども、プレーヤー個々人の自由がすべて奪われたわけではない。彼らはその気になりさえすれば、何かを思い出すことができるはずだ。サッカーというものが、資本主義的なものに呑み込まれていく前の、単にボールを蹴って、運んで、相手のゴールに突き刺すだけだった頃のことを。そこにあった何かを。




さて……やはり問題はラリ夫なのだ。スポンサーとかサッカー協会とか日本代表サポーターとかテレビとか新聞とか10番の重圧とかどうでもいいから、とりあえずピッチに立ってサッカーができることの楽しみを思い出してほしい。今度の土曜日には大一番の浦和レッズ戦があって、FC東京にとっては今季いちばんのビッグゲームといっても過言ではないのだが、中二日でラリ夫の出場はありうるのだろうか? 出ても、五輪疲れでパフォーマンスは低いと考えるのが普通だが、だけれどもやっぱ頑張って出てほしい。「五輪の雪辱を」とか理由はなんでもいいので、でも、たぶん、その日、味スタはかぎりなく満員に近い状態になるのだから、そういうスタジアムの中でサッカーができることの喜びをかみしめて、あのピッチの上で10番をつけてプレーしてほしいものだと切に願う。