文脈を越えて


先月末のエクス・ポナイトについて、いろんな方がブログで感想を書いてくださっていますが、そろそろ終息かと思ったところで不意に某書店員の阪根さんが書いてくれました。しかも「テルテルポーズ」に大きくフォーカスしてくださっていてありがたいです!
http://d.hatena.ne.jp/masayukisakane/20080811/


我が意を得たりと思うのは「いい意味で野心が枯れている」という指摘で、まさにそれこそが今回の書き手たちを集めたゆえんでもあります。超多忙の中でインタビューに答えてくださった佐々木敦さん以外の書き手は、阪根さんが推察されたように(狙ってませんが)奇しくも例の「ロストジェネレーション」と呼ばれる世代に属しています。その意味では、いくらでも鬱屈していく要素は周囲に満ちているはずだし、いくらでも流されていくことはできるし、「お金が」とか「時間が」という言い訳をすることだってできる。でもしない、してこなかった、不穏な状況の中にあっても(口に出しては言わないけど)何か自分の大切なものを守ってきた、という人たちに原稿をお願いしたつもりです。


単に目立ちたいのであれば、いかにもロスジェネ的な雑誌を作ればいいんですよ。キャッチコピーも作りやすいし、運がよければ新聞にも載るかもしれない。既存の文脈に乗っかるほうがそういうのはラクなのです。けれども僕は(僕らは)それとは全然違うものを目指しています。というより、違う流れの中に身を置く必要を感じています。


それは「言葉が現実を作る」部分が大きいと思うから。現実が言説を生み出すのではなく、言説が現実を捏造していく、ということは往々にしてあるわけです。「ロスジェネ」とか「ゼロ年代」とかいう怪しい言葉が流通するようになって、ネタなのかベタなのかわからない(からどうでもいいし、言ったもん勝ちの)言説がいやに目立っていますが、別に全員が2ちゃんねらーなわけではないのにそれが現実だ、みたいなことになっていくのはいかがなものでしょう。もちろん中には切実な問題も含まれてはいますが、とはいえ実のところはもっと縦横無尽に用いることのできるはずの「言葉」が、すでに誰かによって用意された文脈の内部での乏しい語彙だけで展開されていくのだとしたら、端的にそれは息苦しいし、明らかに時代のあだ花的なもので終わると思うのです。


やや大上段に構えて言いますが、ある時代に生きている人は、しばしばその時代が永遠に続くものだと思い込みがちです。でも、時代は終わるんですよ。そして次の時代がやってくる。それは別に予言でもなんでもなくて、いくつか本を読んだりすればイヤでもわかることです。おそらくは世界が滅亡するというようなこともなく、しかも、大きな天変地異によってがらりと変わるということもなく、次第に、ゆっくりと、変わっていくだけでしょうけど。


とはいえ僕自身は複数の時代に生きられるわけでもなく、とりあえず今を生きているのだから、せっかくなら楽しく面白く生きたいし、そう生きることが自らの責任であるとさえ考えています。いやほんとにひとりひとりがそうやって生きていったら明らかに世界はもう少しマシなものになりますよ。鬱屈したものを貯めて、毒をこさえて、でもそれを隠して、隠しきれないで表出してきたものを適当に裁いて処理して、また鬱屈したものを抱えていく(そしてその過程で死んだ人たちの骸を踏み台にしていく)といったいかにも戦後日本的な負の連鎖に加担するつもりはないです。といっても、別に自分だけ潔癖に生きたいなどと考えているわけでもなく(僕だって泥まみれですよ)、いわば泥舟に乗って突き進むというような第三の道があるらしい、というようなことは、ようやくわかってきました。


やや冗長に書きすぎました(また参謀に怒られる……)。まずできることとしては、与えられたパースペクティブ(世界の見え方)の外部にいくらでも豊かなソース(語彙)が転がっていると思うので、それらを少しずつ手探りで発見していきたい。そのためにとりあえずは、別の言葉のルート(文脈)をいろんなところに作っていきたいなと思っているし、まあ実際少しずつやり始めているつもりです。ちなみに「テルテルポーズ」は2号以降も作りますよ。あと「路字」もぼちぼち次の動きを見せると思います。「エクス・ポ」は5号がようやく山を越えてデザイナー作業中ですが、今号はかなり凄いことになっています。乞うご期待!