ゴダールの「と」をめぐるオブセッション


ところで香山リカの『テクノスタルジア』を買ったのは、1995年11月4日のジル・ドゥルーズの投身自殺について当時どのような反応があったのか、その一端を知りたいからだった。おそらく、ニューアカデミズムを経由して現在にまでもっとも影響を与えている思想家は、フーコーでもデリダでもなくてやはりドゥルーズではないかと思われる。そこにはきっと80年代の若者たちを陶酔させるような、未来へのビジョンのようなものが示されていたのではないか。




さてここから少し話はズレるのだが、『テクノスタルジア』にはゴダールについて書かれた章があって、そこではゴダールの映画に示唆される「2」または「3」という数字について答えた、ジル・ドゥルーズのインタビューの一端が紹介されている。

とぼけないでくださいよ。実際はそうではないということを、あなたがたは先刻ご承知のはずではありませんか。ゴダール弁証法に頼るような男ではありません。ゴダールで重要なのは、『二』でも『三』でもないし、それ以外の数でもなくて、接続詞の『と』なのです。『と(ET)』の用法はゴダールの核心に関わる重要問題です。


これはドゥルーズの『記号と事件』から引用されたものである。この指摘自体は興味深いのだが、果たして香山リカのこの引用は、その1年ほど前に刊行されていた(初出も先だった)佐々木敦の『ゴダール・レッスン』を踏まえてのものだったろうか。少し長くなるけれど以下に『ゴダール・レッスン』からそのくだりを引用する。


「編集という側面は、ある意味では、あまりおおっぴらにすべきものじゃありません。なぜなら、これはきわめて強力ななにかだからです。事物と事物の間に関係を打ち立て、それによって人々に、事物を、状況をはっきりと見させるなにかだからです。(中略)ただ単に結びつけるということこそ、私が編集と呼ぶものです。またそれを通してこそ、映像とそれにともなわれた音の、あるいは音とそれにともなわれた映像の驚くべき力が引き出されるのです。でもこうしたことについての地質学と地理学は、私の考えでは、映画史のなかにふくみこまれているにもかかわらず、まだ目に見えないものにとどまっています。というよりむしろ、こうしたことは提示すべきではないこととされています」(JLG『ゴダール/映画史』)



 ただ単に結びつけるということ(原文傍点)、これが無作為、無根拠な接続と同義であるわけがないことは明らかだろう。ドゥルーズの指摘を引くまでもなく、ゴダールの最大の関心事とは、常に一貫して「と」という問題である。「編集」という作業こそ、その全作品のもっとも根底的な部分を――技術と理論と政治の三叉路において――決定しているのだ。

ゴダールの「と」をめぐる、ある種の化学反応とそれを可能にする「編集」という問題意識は、あきらかに現在の「エクス・ポ」にまで受け継がれているに違いないのだが、佐々木敦みずからがこの本のあとがきで語るように、そこには「ほとんどオブセッションとさえ呼べるほどに同じ問題圏ばかりを旋回している」といった事態が生じている。しかしオブセッションの欠片も感じられないような問題意識など、せいぜいその場の時間つぶしか流行り病か若気の至りにすぎないのであって、真に重要な問題は2年や3年で消えることなく長い期間にわたって引きずって下手をしたら墓場まで持ち込むしかない。手を替え品を替え、それでも繰り返し何かについて語ってしまうという、そのオブセッションこそが重要なのではないか。もしかしたら、人は一生のうちにせいぜい一つか二つの問題圏にしか関われないのではないか、という気さえ最近はする。


彼にとっては、それらをいかに組み合わせるか、ということと、そうした接続がもたらす効果を計ることの方が、はるかに重要なのだ。『映画史』では、何人もの映画作家の名前が画面に現れるが、そこには常に「+(プラス)記号」が添えられていたことを見落としてはならない。この意味で、ゴダールの『「映画史」』とは包括的な「集合」ではない。それはいわば「系列(セリー)」である。ある映画のショットに、別の映画(同じでも構うまいが)のショットが足し算される時――ワン・プラス・ワンだ!――それは生起する。従ってそれは樹木的な「系図」より、音楽の「スコア」に似ているだろう。断っておくが、ゴダールは全てを相対的な関係に解消してしまおうと目論んでいるのではない。そうではなく、「編集」という運動においてこそ、ある絶対的な「差異=批判」が顕在化するのである。そしてそれは鎖を断ち切られると、たちまち効力を喪失してしまうような類のものなのだ。

ゴダール・レッスン―あるいは最後から2番目の映画

ゴダール・レッスン―あるいは最後から2番目の映画