つかまえる


なにこれどうも体調わるい。これは俗にいう夏バテなのか。いったいなんなのか。


先日同居人たちと家で飲んでいて、中座してN社の事務所移転パーティにちょっとだけお邪魔してそれからカフェで打ち合わせして、さらに家に帰ってまた飲み続けて、村上春樹古川日出男とか、インターナショナルとグローバルという概念だとか、小説におけるナショナリズムと歴史の観点だとか、川上弘美の日本語だとか、日本の警察官とミシェル・フーコー的権力観だとか、共産主義政権下における少年Dの物語だとか、たぶんそんなあるようなないような話で酔いが回っていって、次の日起きたら完璧な二日酔いでダウンしていた。そして隣室のダビデさんに、その日の天気の傾向について3回くらい質問したのだが、驚くべきことに回答がすべて異なっているのだった。それは「雨」であり、「晴れ」であり、「雨」だったのだ。


いよいよ私は気がふれたのかもしれないと思った。


そして気づいてみると、どうにも身体に力が入らないのである。左腕に動けという指令を飛ばすとそれは動くし、右足に念じると動くのだが、そうした強い意志を発しないかぎりそれらはただぷらーんとぶら下がっているだけで歩行さえも困難である。ただ放っておくと身体が徐々に麻痺してくるような気もするので、時々身体の隅々に対して意志を発する。意志を使って身体を巡回するのである。そうしないとだんだん身体が腐っていく気がした。


しかしそのような状況はまた、非日常的というか普通でないという意味において楽しくもあるのであって、左手と右手が完全に独立した存在であることを今私は完全に知覚している。こうしてキーボードを叩くという行為は通常、「手の動き」という漠然としたものとしてほとんど惰性で認知されているのだが、今こうして明らかにそれぞれ異なる動きで踊っている左手と右手の動きを凝視していると、頼もしくさえ感じられるのだ。(うわっ、気持ちわる、でもおもろ!みたいな…。)


では、こうした身体の各部位の様々な動きを統合しているのが「私」ということになるのかというと、それも即座には承服できないことであって、そもそも意志が巡回のために用いられているがゆえに、意識は散漫になっているのだ。そうした散漫な意識は、巡回していて目に触れるもの、耳に聞こえるものに対して通常とは異なる手段でコミットする。つかまえるという感じ。それはちょっと面白い。




そういえば突然話は変わりますがwonderlandの「家族の肖像」クロスレビューにあの人が書いていて、おお、いよいよ書き始めたんだ、と思いました。というかきっと今回あたり書くんじゃないかという気がしていましたよ……。今のご時世、よくあるのは誰かの影響下にあるとか、どの界隈に身を置くかとか、どのシーンに属しているかといったところで書き手が登場することが多いような気がしますが、けれどもやっぱり書くという行為は究極的にはひとり、なので、その本質に照らして言えば一匹狼的な書き手の誕生は歓迎されてしかるべしだと思います。そしてそれは、それこそコミュニケーションのために書くのではなくて、やんごとなき事情によって、書く行為そのものに取り憑かれるようにして書く、ということと、けっして無縁ではありますまい。
http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=898