ポニョ的家族観


うおー、足が痛い……。原因不明の足の痛さ。単にここ数日部屋に籠りきりだったからそれがよくなかったのかと思い、誘われたのでシモキタに飲みに行ったのだけどやっぱり足は痛い。ひさびさにMRに行った。やっぱりあそこはよいなーとか思いつつ。でも足が痛い。痛いんだよ。


で、最後なぜかポニョ論争(?)になったのだけど、はっきり言ってポニョごときでと口惜しくもありますが、いや、でもポニョは偉大だ、とも思うので「ごとき」なんて言っちゃいけませんけどあえてごときと言いますけど、でもねーまず前提として、宮崎駿はマザコンロリコンで、なんてのは批評としてまったく認められないというか、全然ダメダメな読み方観方だと思うんですよ。そりゃ、あの作品群からマザコン的要素なりロリコン的要素なりを抽出するのなんて簡単ですけど、ええとゴチックで繰り返しますけど簡単ですけど、そんなものは全然読みになってないというか、あの作品群が本来持ちうる豊穣さに対して失礼というか重大な読み落としをしてしまうことになると思うんですよ。だからそんな愚かなモノサシで宮崎駿を判断するみたいなことはいい加減そろそろもうやめましょうよと私としては訴えたい。それに仮に性的嗜好性がどうであれそんなことはどうだっていいじゃない? ほっとこうよ。みんなそんなにノーマルじゃないでしょ? いやノーマルのかもしれないけど、それだったら別にどうでもいいけど、でも別にノーマルじゃなくたって構わないじゃん。そんなに忌避すべきことかしら。


それでその上でポニョに関して言いたいのは、前にもここに書きましたが父+母+子のトライアングルみたいな話にしてしまうのが私としては承服しがたいってことで、それは、宮崎駿が子供向けに作った(それが結果的に成功してるかどうかは別にして)ものが父+母+子の定型を強化するものであることに対して私としては強く異議を申し立てたいわけです。あのポニョ的世界がもっといくらでも豊穣になる可能性を考えたら父+母+子の精神分析的(あるいは神話的)トライアングルをなぞる必要なんてなかったと思う。どうせ子供に理解できないんだったら(子供たちの多くはエンディングの歌目当てだろうから)そこで潜在的心理的に訴えかけるものとしてそうした支配的家族観の定型をわざわざ持ち出さなくていいんじゃないか。いや、父+母+子というのは誰にとってもあるものだからという考え方があるのはわかりますが、それは基本的に反抗の対象としてであれそうしたトライアングル的構造が確固としてあるという前提に立った上でものを言っているのであって、はっきり言って核家族以前の大家族とかだったらユングをちょろちょろかじった学生とか(大御所も含めて)が精神分析的モチーフとして持ち出す安易な(そして世間知らずな)分析がそれほど説得力があったと思えないし、逆に核家族さえ崩壊した現代においてそうした定型モチーフが説得力を持つとは私としては思えないし思いたくもないのですよ。父+母+子こそが基本だ、というタイプの家族観は私としては忌むべきものだし、いやいやこれだと誤解を招くな、そういう家庭があることは至極けっこうなことでなんの問題もないですが、そうあらねばならない的な規範が押し付けられることに関しては私としてはとうてい受け入れがたいことなのです。なので……いや、繰り返しますがこんなことごときで熱くなる必要はないってことはわかってるんですけど、ていうか当の話をしていた相手はもうちょっと面白い話を言ってたのでそれを冷静に聴けなかったのが悔やまれますけど、家族、家族、家族、それに対しては私としては思うところがあっておそらく冷静さを欠いてしまうのだと思うけれどそれにしても足が痛い。ちょっと痛すぎます。


っていうか今日は9月11日で競輪選手がひとり亡くなった……。そっちのほうがはるかに重大なことなのだが。